夜明け前のまだ暗い空に浮かぶ三日月はどこか儚げな表情をしている。黒と黄金色のコントラストがただただ美しいから、それに吸い込まれてしまい、なにか語りかけてくれそうに思えるけれど、それはただの幻想であって、本当はなにも聞こえない。

夜の相場、つまり日本人にとっては先物や為替相場のことだが、それらのトレーダーにとって夜は夜ではなくなる。むしろ日中よりもギラギラと明るい、それでいて淀んだ夜の世界がそこにはある。ここ最近は上下へのボラティリティがとても大きく、夜は長くて深くなっている。

僕は夜の相場のあいだに眠ってしまうこともあるけれど、安眠はできない。まるで目覚まし時計のように聞こえてくる。板が動く音が、チク、タクと。目を覚ますと大きく動いていることが多い。二度寝できるのは、良い方向に動いているときだけであって、逆の場合はもう眠れない

日本の先物市場は朝の5時半に引ける。
「おつかれさま。さて寝ましょう」
というわけにはいかない。まもなく日の出を迎え、株式市場が「おはようございます」といってくるのだ。寝ても覚めても気の休まることのない戦場のようである。いや、そもそもここは戦場か。

朝8時になるといっせいに気配が動きはじめる。あらためて、気配という言葉は的を射ていると思う。板に並んでいる枚数は気配的であり、そこには本気のものや、嘘のものがあり「さあ、わたしはどっちでしょう?」と語りかけてくるし、騙りかけてくる。

9時になると市場がスタートする。気配は瞬間的に実態となり、そしてすぐに気配に戻る。板は出たり消えたり、突然現れたり、まるで忍者のように動きつづける。「板の声が聞きたい」と思うけれど、聞こえてくるのは声ではなく、ピコピコという効果音だけだ。

大きな買い板が入ると、買い方は安心して買い向かってしまうけれど、大きさは相対的なものである。僕たちが大きいと思っていても、それを格好の餌食と思う大人たちもいるわけで、一発で喰われてしまう。尺度の違う世界にいる人には、きっと板の声が聞こえているのだろう。

効果音がバチバチと変わるとき(それは節目戦のときが多いが)、少しだけ声が聞こえそうになる。そんなときは見えない板があって、瞬足で喰われて株価がワープする。その力の方向が接近戦の勝者となりやすいが、隠れたラスボスがいて、痛恨の一撃パターンもある。

約3600銘柄が織りなす世界は電子的でサイレント映画のようだけれど、揺らめくチャートや押し引きをする板の中には蠢くものが棲んでいる。世界の住人を出し抜こうと息を潜めている彼らの姿はこちらには見えないけれど、きっとどこかで微かな声を洩らす。そう。コエガキコエル。

 


 

冬も深くなった寒すぎる朝に、僕は散歩がてら神社にお参りに行くことが多い。夏のころは蝉の声がうるさかった境内は、冬になると殺風景でとても静かである。ブランコやシーソー、ジャングルジムのある小さな公園があり、ノスタルジックな気持ちになる。

僕は無宗教だから信仰心を持ってはいないが、心の中に神様のような大切な存在はいると思っている。祖父や祖母、飼っていた犬たち、そして亡くなっていったあまたの先人たちが無になったとは思わない。物質は消えても、精神は永遠に残る。自分次第だけれど。

きっと見守ってくれている。想像すればすぐに脳裏に浮かぶのだから、とても近くにいるのだ。もしかすると「相場なんてやめなさい!」って大声で注意されているのかもしれないけれど、残念ながらその声は聞こえない。諭す声と板の声は、いまの僕には届かないのだ。

相場も冷え切りそうなほど寒い季節だとしても、もちろんそんなことはなく、氷壁を溶かすほどの熱いセクターやテーマ、個別銘柄はいつも存在している。2018年末に株式市場を襲った揺れもひと段落し、売られすぎた銘柄が少しずつ息を吹き返してきている。

バイオテクノロジー分野では再生医療や遺伝子治療などの先端技術、メガファーマのM&A案件の活発化などを背景に、セクター全体に資金が流入した。個別銘柄も材料が豊富で、好結果で飛び立った銘柄や、マイルストーン、ライセンスアウト思惑など、話題に事欠かない。

「バイオは人類に生命を与える」

これはバイオベンチャーが企業理念のコアに置くべきだと僕は考えている。そして同時にこうも考えている。

「バイオは投資家に夢を与える」

最後までは書かないけれど、バイオ株はまさに夢株である。

 


 

AI(人工知能)も次代を担うコア要素になるだろう。AIは過去何度もムーブメントを起こしたが、まだマシンスペックが低かったために実用化には至らない歴史があったらしい。それを打開したのがGPUと呼ばれるプロセッサや、クラウドなどのコンピューティングの変革だ。

AIはディープラーニングという深層学習ができるようになったことで目覚めたらしい。これは脳と同じニューラルネットワークという仕組みで成り立つようだが、小難しい話はさておき、とにかくAIは「自分でモノを考える」に至ったわけである。

シンギュラリティと呼ばれる「AIが人類の知性を追い抜いてしまう」概念があり、これが西暦2045年に起こると予測する人たちがいる。これは悲観的な文脈で語られることばかりだが、果たしてそうなのか。信用できないものが多い世界ゆえに、AIへ懐疑的な考えが蔓延しているのではないだろうか。

海外ではターミネーターのような悪役をAIが演じることが多い。一方の日本では、ドラえもんや鉄腕アトムなど、みんなの憧れとして描かれることが多い。国民性の違いなのかもしれないが、AIが進む方向にはたくさんの分岐点があり、無限の可能性を秘めているのだ。

すでに賽は投げられている。自分でモノを考えるAIが電子の世界に住み、彼らは増殖し、人間の歴史からするとありえないスピードで成長していくのだろう。どんなゴールを迎えようと、それは現実であり、リアルとバーチャルの垣根を超えてくる。世界はつながりはじめる。

AIというテーマも注目されつづけるテーマになるだろう。いまの時代において、彼らが抹殺される可能性はほぼゼロである。世界の中にすでに組み込まれ、これから生まれる新技術の中にもすでに息を潜めている。ドラえもんは22世紀ではなく、21世紀に生まれるかもしれない。

 


 

「利は伸ばし、損は切る」。言葉としてはシンプルであり、たやすく実行できそうなことだけれど、じつは重くのしかかり、なかなか実践できないものだ。一方、「利は我慢できず、損は我慢する」。これは簡単に実行できてしまう。人はなぜか恐怖への耐性が強い。

損切るタイミングはいくらでもあったはずだし、あわよくばプラスや同値でクローズできるチャンスもあったかもしれない。そういう値動きを目にし「もう少しリバるかもしれない」と、淡い期待に駆られてしまう。そんな僕たちを、相場は堂々と翻弄し、そして裏切る。

銘柄には怨念のような力がみなぎり、淡い期待は儚いものとなり、つい先ほどまで逃げられた水準に戻ることはなく、震える水準まで下げつづける。我慢のできない玉が五月雨式で投げられる。玉が底をつき、やっとチャートも底になる。

底は何かしらの節目付近のことが多く、上げるタイミングで買われた玉が価格帯ごとにあるから、下げ相場になると同値での手仕舞い玉もたくさん出てくる。下げ相場では負の連鎖が起きている。それを我慢している状態が「損を我慢する」という構図だ。

そうして、なぜかこの水準になると、我慢できなくなって損切りをしてしまう。買いのターンに切り替わるところで。とても不思議なことだけれど。僕も逃げ遅れるときはたくさんあるけれど、我慢したのなら、意地をはって我慢しなければならないと思う。

利確は正義。損切りも正義。損を我慢することは正義ではないが、我慢し尽くした後にやっぱり我慢をやめるのがいちばんの悪だ。悪というか、もっともパフォーマンスよく大損する方法だ。「あなたの投げたそこが底」といわれ、強者に玉を取られてしまう。

これが積み重なると、利に対しては我慢できなくなる。下げたときの損が怖いから、少しでも上がると利確したくなる。損を早く取り戻したい気持ちも強いのかもしれない。そしておもしろいことに、また同じ銘柄を買ってしまう。いうまでもなく、高値で。

アップトレンドなら、この上下は一過性のものであり、あとから見返せばキレイなチャートの一部になっているかもしれない。しかし切り取られたワンシーンの中にいるトレーダーにとっては天地が見えない世界なのだ。リスク管理ができれば、ただの平和な世界かもしれないが。

 


 

株価が上昇してくると誰の目にも明らかになり、たくさんの買いが沸いてくる。値幅に魅了されるデイやスキャの売買も増え、この段階でのトレードは難易度が 上がる。厚そうに見えたラインもいちど割られてしまえば薄氷になり、ピキッという音とともに一気に雪崩れる。

押し目を狙おうという考えもあるが、これもまた難しく、押し目が来るかどうかはわからない。そのまま上に向かう場合も多いからだ。上値追いをすればカカトを喰らうが、下で待つと押してこない。人によってつくられたチャートなのに、人を翻弄し、感情を揺るがす。

いや、チャートをつくっている人たちが、他の人たちを翻弄しているのか。彼らがどのような意志をもってチャートの中に巣食っているのか、それを感じなければいけない。もっと上げたいのか?それとも終わりにするのか?高騰してたくさんの板が並べば、捌くのは難しくないだろう。

毎日株価が上がって欲しいと僕たちは願うのだけれど、チャートをつくっている人たちは、たぶんそうは考えない。イナゴを殲滅させるための売りも入れるし、さらに買い増しするために下げることもある。マシタンになって個人が買い渋る中、安く買い集めることもあるだろう。

大きな資金を入れる人たちがどのような戦略や勝機を考えて相場をつくっているのか僕にははかり知れないものがあるけれど、おそらくは僕たちが思うほど楽しいものでも、簡単なものでもないのかもしれない。大人たちの戦いがそこにあるからだ。

僕たちは大きな波に乗った、ちっぽけなサーファーのようだ。たくさんのサーファーが蜘蛛の糸によじ登る人間のように寄り集まり、大波に乗ったり、海面に叩きつけられたり、さらに深いところに沈められたり。大波に気持ちよく乗るためには、技術と感覚とイメージが必要そうだ。

押し寄せる波を避ける技術、波がたつ場所を推測する感覚、大波に乗り、波のトンネルを抜け、太陽の光がふりそそぐその先の場所へ。 Fly me to the Moon 違うな。Sunか。

 


 

板の声はあいかわらず聞こえないが、見えてはいる。でもそれは、誰の目にも見えているものであり、ピコピコという効果音(実際は効果音すらないけれど)だけでは、ただの無機質な動画でしかない。僕が求めているのは声だ。 「たくさん買っちゃうよ」 「ここから上げちゃうよ」

そんな声、つまり板の感情を聞きとれるようになりたいものだ。でも、当然ながら、なかなか正体を見せない。 強気な動きをしている板があるときでもすぐに疲れを見せる場合もあるし、歩み値が大きく速くてもそれに覆いかぶさるさらなる強者がいたりもする。とても不思議な世界。

いままで、出来高は足跡だと考えてきた。実際にそれは足跡ではあるが「誰の?」という問いに対する答えはまだそこにはない。あるにはあるが、明確ではない。これが歩み値には現れる。約定のサイズが数値で出るからだ。板はピコピコと鳴るが、歩み値はまれにドンッと鳴る。

もし、ある銘柄に大人がひとりしかいないってわかるのならば、トレードはもっと簡単かもしれない。ドンッと聞こえたら、すぐにその音についていけばよいのだから。ヨーイドンッの合図そのまま。急げ。大枚を捌くには、もっと価格を上げて、追随者が必要になる。かよわき子羊が。

これは大人がひとりしかいない場合の話である。実際にはそういう状態はあまりないだろうし、ひとりなのかふたりなのか、もっといるのかなんてわかりはしない。大人対大人の板に見えたとしても、ひとりの大人が演じているだけかもしれない。演じているというか、守っている、か。

銘柄に何人の大人がいるかは分からなくても、そのフィールドをテリトリーにしている大人がいるという話を聞いたことがある。彼らにとってその場所は棲家であり、うちを荒らす外部侵入者には敵対的に臨むらしい。多少家が壊れようが、鉄槌を打って敗走させるのだろう。

銘柄は誰のものでもなく、みんなのものなのにな。けれど、そんな怖い場所からは僕も逃げちゃおう。 話がそれてしまった。

話を戻すと、銘柄にいる大人がひとりの場合、彼がつくるドンッという音、つまり買いだろうが売りだろうが大きな約定は、その方向に価格を動かす意志があるということになる。そうでなければ意味がない。大人はひとりなので、誰かに邪魔されることはあまりないだろう。

誰にも邪魔されず、じわじわと価格を上げて銘柄を目立たせ、新しい参戦者(それは僕たちか)をつくり、たくさん買った株券を少しずつ上で捌いていけば簡単に勝利、というフローができる。でも、なかなかそんな簡単にはいかないだろう。 ひとりで自由にできるわけではないから。

人の世界でもそうだが、ひとくちに大人といってもいろんなタイプがいるし、レベルも千差万別である。僕らを欺こうとするひとり目の大人の100枚に対して、ふたり目の大人が200枚をぶつけて欺くこともあるのだ。戦争と同じで軍事力が強ければ強いほど被害も甚大で、大人も必死だ。

武士道で考えると、味方を裏切ることは恥じることであり、後世までお咎めを受けることだろう。けれど、トレードの世界では同盟を結んでいるわけではないし、自分がついていこうとした大人が負けたのならば、我先に逃げるが勝ち。殿(シンガリ)なんて、誰かに任せておけばいい。

いまいえるのは、 「大人の足音が聞こえた」 ということである。でもこれは当然、声ではないのだ。

 


 

バイオの春を迎えようとしている。新薬が承認され、関連銘柄が盛り上がりそうである。白血病という言葉は、先日別のニュースで聞いたけれど、同じタイミングで新薬が承認された。バイオベンチャーにとって本来あるべき成果に向けた動きはとてもすばらしいことだ。

とはいえ、新株をどんどん発行しやすい業種なので、夢と期待とリスクのバランスを考えた投資が大切ではある。欲望と幻想に魅せられてしまうとき、バイオはまるで魔物のように、資金を蝕みはじめるのだ。

 

でもいまはとにかく、 「おめでとう」

 


 

「板は厚い方に動く」なぜだかわからないが、相場にはこんな格言がある。上の板が厚い場合、本当の蓋であることもあるし、見せ板であることもある。ただ喰われるだけの格好の餌食であることもある。売りの蓋があると買いが弱そうに見えるが、そういうわけでもない。不思議な現象だ。

本当の蓋である場合は、利確のために置かれているのかもしれないし、空売りのためなのかもしれない。蓋が動かない以上、それは見せ板ではなく、そこで何かしらの理由で売りたい人がいるということであり、そのラインは意識しなければならない。

見せ板だった場合は、シンプルにその方向に動かしたい大人がいるということになるのだろうか。つまり売りの見せ板がある場合、我先に売り逃げたい人の玉を安く買うための蓋になる。こういう板は、買い挑んでくる動きになると、上へ上へと逃げていく。

格好の餌食になって喰われてしまうのは、たぶん大人同士の戦い。ひとつの銘柄にひとりの大人しかいないわけがない。個人を欺く悪い大人を、もっと悪い大きな大人が欺く。さて僕たちはどっちの大人につくのだろうか?

でも大人が負け知らずの強者というわけではない。個人の勢いが、まるで元気玉のようになって大人の売りを激烈なまでに吸収していく場合もある。個人はみんなこう思う。「ざまあみろ」って。大人の中にいる人は技術はすごいのかもしれないけれど、みんなただの人なんだってわかる。

 


 

テクニカルは絶対ではなく確率論であり、板読みもまた確率論である。こう考えてトレードするようになった。どんなによいシグナルが点灯したとしても、絶対に勝てるわけではなく、それでも逆行する場合もある。ただ、適当なトレードをするよりも勝率は高いという意味で確率論である。

確率論と考えるようになると、負けても自分の問題ではなくなる。確率の低い方を引いてしまっただけであり、運が悪かったかもしれないが、読み自体が悪かったわけではない。そう思うことが大切なのは、潔く負けを認めて、大ダメージになる前にロスカットができるからだ。

負けを認めず、つまり「自分の考えは正しい」と思い続けてしまうことが、さらなる負けの道を進むことになる。自己肯定は強い握力を生み、当初の売買の理由から大きく隔たった後づけの理由をたくさん考え出すことになる。テクニカルから、ファンダメンタル、やがて長期投資に。

野球の打率は3割を超えると一流プレイヤーと呼ばれるらしい。特に大切な場面での1本のヒットが勝敗を左右することもある。トレードで3割の勝率となると少ないと思うかもしれないが、負けるときのキズが少なく勝つときに大きく取れるならば、3割でも勝者である。

テクニカル、ファンダメンタルなど、そのトレードをする理由とは別次元のこととしてセルフメンタルを変えない限り、同じことは繰り返される。

こんなことを、僕の含み損の玉が耳元で囁いていた。