増収増益、わかっていた。
疑義解消、当然だ。
来期予想は・・・。僕の目は一点に釘づけになった。

「ああ、まさかそんな・・・」

夢のはじまりであり、夢の終わり。星になった日。夢から目を覚まし、苦いコーヒーを飲む。何杯も、何杯も。そして白昼夢に落ちていく。日中の悪夢に。

狂騒曲がずっと脳裏に流れていた。熱病を患い、より高みを目指して登りつづけた3ヶ月。 たどりついたのは青空ではなく、湖のある山頂だった。しばらくそこで休憩をし、そして下山した

僕はその日以来、収支の報告をすることをやめた。

「獏」という夢を食べるとされる架空の動物がいるが、株式市場でもありありと生きているらしい。架空ではなく現実に。 僕たちは熱に侵され、ひとつのことを信じきり、まわりが見えなくなることがある。

そして、いつか終わる夢が膨れ上がり、獏のかっこうの餌食になる。バクリと。

 


 

とても長く感じられた2日間を終え、僕はこの戦いに終止符を打った。夢も心も泡のように弾けとんでしまった。情熱の後にくる冷静は、初夏なのに、まるで冬の風のように頰を刺した。 そしてひとつのことをまた学ぶ。「銘柄に惚れてはいけない」と。繰り返されるかもしれない約束を。

相場において「もしも」を後から言うのはあまり意味のないことだけれど、冷静になったときに見えてくる事実は、その後のトレードをレベルアップするには大切なことだと思う。「こうしていれば良かった」ではなく「次はこうしよう」という思考であれば失敗は糧になる。

夏の大三角形のようなチャートを描いたサイバー社だったが、いま思えばもう高みに登りきっていて、余程の来期予想がなければ株価を保っていられる水準ではなかった。株価を維持できる予想が出る可能性さえ少なかっただろう。でも、そのことがそのときは考えられなかった。

数字からスタートした相場が、やがて思惑の相場に変わっていき、そして夢の相場と化した。ここで夢に取り憑かれてしまった。前と上しか見えなくなってしまう。 1枚たりとも利益確定をせず、1円でも多く勝ちたいと思った。狂気以外の何者でもなかった。夢だけでは勝てない。

株をはじめてから、僕はモノを見るときに価格よりも前に「いくらするか?」を考えるようになった。洋服、家具、建物、今日の夕飯とか。答え合わせは大体間違っているけれど、当たることもある。この習慣はなかなか楽しいことだった。モノの価値は自分にとっての価値でもある。

でも、株価だけは自分の価値観ではなく、多くの投資家たちの価値観である。プライベートのような、ひとりよがりの投資であってはならない。企業の今の価値と将来の価値を見定められなければいけない。そのためには数字を読み解く力、ビジネスの発展を見通す力が必要になる。

ファンダメンタルズ分析。企業の数字を読み解くための視点。これが企業の時価総額を定める根拠になる。もちろん株価はそのラインの上にも行くし、下にもいくこともあるが、最終的に株価を支えるラインとして収束する。しかしこの視点を疎かにしてしまうことがある。

思惑と過信。これらの重しがファンダメンタルズとテクニカルな視点を追い越して一人歩きをはじめてしまうのだ。そして僕はそれにしがみつき、やがて来る終決の日までいっしょに歩いていくことになる。ギラギラした目を隠した、にこにことした表情で、一寸先に待つものも見えずに。

 


 

「着物はこれから流行るかもしれないね」「このステーキ屋さんは人気出るかもね。わたしは好きではないけど」「この化粧品、最近使う人が多いみたいだよ」 つくづく女性は流行に敏感だなと思う。たいてい聞き流して調べずにいると、あとでその企業の株価に仰天してしまう。

「このグラフっていつも同じじゃない?ここで買えば大体上がってるよね?」 女性は鋭い。なんの知識もないはずなのに、彼女の直感力には驚くばかりだ。「やり方教えるから、代わりにやってみる?」と、冗談をいってみたことはあるけれど、パソコンは苦手らしく、話は流れた。

流行には敏感に。テーマにも敏感に。数字にも強くならないといけないし、四季報も読まなければならない。僕にはやるべきことがたくさんあった。 どこから手をつけていいのか分からなかったけれど、屁理屈をこねて止まっている時間はなかった。

バイブル「四季報」を読もう。わからないことがあれば、調べて身につけよう。僕は近所の書店に向かった。 僕がいままで見た本の中で、辞書か京極夏彦とトップを飾れるほどの分厚さだった。家路の道のりが遠かったのは、本の重みなのか、気持ちの重みなのか、どちらだろう。

四季報は水産・農林のページからはじまった。一言一句、指でなぞって追っていく。企業名、チャート、見出しとコメント、決算の推移や時価総額などが小さい枠内にふんだんに書かれている。書いている記者に「おつかれさまです」と言いたくなる内容だ。

四季報を読みながら疑問に思ったことがある。このままのペースで読破できるのだろうか?ということだ。やっと水産関連が終わりそうだが、全体の分厚さに対して1ミリも進んでいない。なぜか世界史の教科書の最初だけ深く読んでいた学生時代を思い出した。

強者がひしめく株式相場は受験ではないので、何ヶ月もかけて四季報を読んでいるわけにはいかない。そんなことをすればすぐに次の四季報のシーズンになってしまうし、有望な銘柄を買う機会も逃してしまう。重要だと思われる部分を拾おう。覚える必要はない。飛ばし読みでいい。

見出しとコメントが凝っていておもしろいのが多い。四季報と聞くとマジメなイメージがあるが、書いている記者の思い(良くも悪くも)がひしひしと伝わってくる。ダジャレ?と思うようなものもあり、書かれた企業側からクレームにならないのか心配になる。とにかくめくっていこう。

3日ほどかかったけれど、とにかく僕は四季報を読み終えた。飛ばして読んでもこんなに時間がかかるのか。気になった銘柄はスマホで写真を撮っておいた。こんなにたくさんの銘柄になるとは思わなかった。写真ではなく付箋紙を貼るべきだった。そして2回目はより深く読んでいった。

安定して増収増益の企業はたくさんあるが、すでに大型の銘柄は除外して銘柄を見ている。上値の伸びしろが大きいものを探したいからだ。サイバー社では辛酸をなめてしまったが、そもそものスタート地点は低く、下げた今でも10倍以上の株価をキープしていた。やはり魅力は高い。

ただ、低時価総額の銘柄にはそこにいる理由もあるし、すべてが期待値が高いはずはない。その企業の持っている将来の価値を見据えないといけない。思惑だけではなく、ビジネスへの取り組みと、それに対する人々のニーズがあるのかどうか。リアルに数字がついて来るかどうか。

僕は、四季報で洗い出した銘柄のその後の動きをチェックしてみた。意外に思ったのは、四季報で良い内容だった銘柄はある程度折り込まれている、もしくは翌日上げて織り込んでしまう、と思ったが、これがなかなか日々伸びていく。折り込み度合いの違いが銘柄ごとにあるらしい。

折り込み度合いがどのくらいなのかが簡単にわかれば誰も苦労しない。四季報を見たり、毎日のランキングを見たりして気づいた銘柄を、突貫工事のように急いで調べてもあるべき姿はなかなか見えないし、遅れもとってしまう。動意してからではなく、監視の習慣が必要になる。

数字の読み方については、師匠がこう言っていた。「売上は時間軸で見る。営業利益・経常利益はパーセンテージで見る。純利益は対時価総額で見る」と。銘柄の監視をしながら、この言葉にある変遷を辿ろう。テクニカルに見るファンダメンタルズだと思った。

 

師匠といっても会ったことはない。自称弟子なだけである。

 


 

散歩をしながら彼女と銘柄の話をすることが多くなった。買うかどうかの話ではなく、自分が社長だったらどういうビジネスを展開したいか。企業は多岐に渡ったが、お互いの得意分野のIT関連や食品関連の話が多くなる。

的外れなことを考えているかもしれないし、業界の中心にいると気づけないアイディアなのかもしれない。もちろん僕たちが考えたことを実行して結果を確認する方法はないのだけれど、ビジネスを考えるのは勉強になる。

ともあれ、いずれ僕自身のビジネスになる可能性もなくはないのだから、考えたことはノートにメモをしておいた。株式市場はなんて魅力的でおもしろいものなのだろう。知らないまま一生を過ごすのはもったいないことだ。

昔あったなんとかショック等は経験をしていないからわからないが、僕が経験した最初のマクロ環境のショックはアメリカ大統領選だった。大方の予想を裏切る開票結果が市場には伝えられ、株価・為替とも乱高下(というよりも下落)した。日本市場だけの話だったが。

大々的にニュースで流れたが、市場へのショックは相場に身を置かなければわからないものだ。株式なり為替なり、自分のポジションがない限り、この影響が直接自分に響いてくるわけではない。当日の阿鼻驚嘆は経験すべきことだった。これからも同じようなイベントは起こるだろう。

 


 

テクニカルの勉強もはじめた。ダウ理論、移動平均線、ボリンジャーバンド、一目均衡表など、たくさんのテクニカル分析があった。いきなり多くを取り入れては何もトレードができなくなる気がして、僕は横のラインだけをまずは見るようにした。つまり抵抗線と支持線だけだ。

斜めのラインは主観が入って都合の良い線を引けてしまうが、横のラインは一目瞭然だ。それに抵抗線と支持線はそれぞれ出来高が多くなりやすく、線としては強いものとなる。レンジを続ける場合もあるし、もちろん上にも下にも割れることはある。そして相場は次の段階に入る。

レンジの中で上げているとき、ついつい買いたくなってしまうが、これは中途半端な買いであり、流れに任せるだけになる。中間の位置を支える根拠が薄いからだ。僕は待たなければいけない。でも待つことはとても根気がいることだ。何かしらの銘柄を保持していたい症候群に落ちる。

僕の投資スタイルは基本的にスイングだ。でも保有がレンジ入りしてしまって時間を持て余すようになると、デイでこづかい稼ぎをしようと誘惑に駆られることがある。スイングとデイの技術は違うものだ。日中足のラインは強いとは限らない。そこでは歩値と板読みの技術が必要だ。

高値買いは避けるようにしているが、それでも弱い建玉をつかまされることになる。逆指値は入れないタイプなので、ずっと株価を見ていないといけない。それでもずっと見ていられない場面は多々起きてしまう。ただのギャンブルになる瞬間。デイトレードは遊びの場ではない。

自分が戦う時間軸は明確にしないといけない。ひとつに絞るという意味ではなく、ふたつならそれぞれの枠をわけ、スタンスを決めないといけない。感情でバランスを変えるとロクな試しはないだろう。そしてそのような場合、下調べが少なかったり、していないことも多いのだ。

僕はスイング5割、思惑銘柄枠に2割、デイに2割、余力1割に設定した。余力1割は少ないと思ったが、いまの資金力ではしかたがない。このバランスを大きくは崩さないように資金管理をしていく。デイ分の引け方が良さそうなら現引するが、基本的には手仕舞いする。

こうして毎日少しずつ勝ちを積み重ねて資金を増やす。その資金で長期銘柄の仕込みをしていく。 そんな理想像を僕は持っている。しかし現実は一進一退、もしくは一歩進んで二歩下がる。勝っては調子に乗り、そして倍負ける。その繰り返しだ。慎まなければならない。慎まなければ。

 


 

朝8時。寄り前の前哨戦の時間だ。僕は銘柄リストにそって、気配の枚数、GUかGDか、前日の引け方との連続性はあるか、などをザッと見ていく。また、SNSでの注目度合い、注目されている理由なども眺めていく。PTSでの売買はしないが、これも参考値として見ていく。

良い位置にいる(来そうな)銘柄には指値を入れておくが、大体は寄りを見て判断することが多い。中には寄りで成り買いで臨むものもあるが、なぜかこの勝率は高い。誰にでも目立つ勢いのある銘柄なのだろう。だからといってすべてをつっこむわけにはいかないが。

9時ちょうど。今日の相場がはじまった。僕が短期で触る銘柄は注目度の高い出来高の多いものなので、朝からドッカンとバトルが開始される。目まぐるしく動く板と株価。時間とともにチャートも描かれていく。僕の意志とは関係なしに、上へ下へと揺れ動く。勝つのはどちらの力か。

勢いよく上昇をはじめる株価。寄りで買った銘柄にさらに買いを追加していく。押し目を待たずにどんどんと。デイと決めている枠だから、利益確定も何度もするし、損切りもする。複数銘柄を監視・トレードする技術はないので、寄り前の雰囲気で感じとったひとつかふたつで攻める。

SNSの盛り上がりを見て、ザラ場中に参戦する銘柄もある。これはすぐには買わず、押し目を待つことにしている。押し目がなければ買わない。買いたいけど買わないことを徹底するようになった。あふれる感情を冷静さで押さえつけるのは、かなり強い感情を必要とするのだ。

たくさんの利が乗っていると思われる他人のコメントには魔力がある。しかし他人は他人であり、自分ではない。とりまく環境、資金、トレード技術も全然違うだろう。簡単に勝っているように見えて、それを達成するための分析、技術、メンタル、すべてを総動員して勝っているのだ。

そろそろ前場が終わる。含み益は3%強乗っている状態だ。デイで入った銘柄は、後場にすべては持ち越さないことにしている。日をまたいだギャップほどではないが、前場と後場のギャップを恐れてしまう自分がいる。これは経験則というよりも、過去のトラウマによる恐怖だ。

僕は前場の引け前にすべてを決済した。もうひとつの監視銘柄が押していて、後場はそちらに集中しよう。複数の銘柄を同時に追う技術がない反面、ひとつに集中している間に、もうひとつにチャンスが来ていることがよくあった。ふたつ同時だったなら、後者はJCしていただろう。

正午に後場の気配が動きはじめ、とある新興の大型株がGD気配を醸し出していた。その銘柄個別の悪材料はなさそうだったし、他の新興銘柄は前場を引き継ぐふつうの気配だった。しかし後場がはじまると、新興市場の雲抜きは暗く陰り、全体の暴落がやってきた。静観にまわる。

売り煽りは浅ましい。でもそんな言葉は場に流されることなく、トレーダーの心理に深くアプローチしていく。売りが売りを呼ぶとはまさにこのことだ。売り一色の世界。たくさんの銘柄が、キレイな陰線で落書きされていく。定規で書いた線のように、すとん、すとん、と。

もちろん全員が狼狽して売りまくっているわけではない。下げ相場を狙ってショートもたくさん入っているだろう。銘柄個別の強さで支えられるものではないのだ。こんなときには、狼狽して売る人と、他人が狼狽するのを見越して売る人がいる。そういうものだと見透かされている。

何度となく繰り返される暴落の日。すぐに繰り返されるリバウンドの日。そして高値を超えていく日。 暴落時には、人は投資スタイルを忘れがちになる。狼狽して資産を失う人、安く買って資産を増やす人、空売りして資産を増やす人。次は活かそうとしても、すぐに忘れてしまう。

相場は回復することなく、キレイな陰線が下にいくつものびて、その日は終わった。 夕食のあと、僕はその日の相場を見返した。個別チャートと市況についてネットで見ていく。悪材料は不明。 そしてニューヨーク市場が開かれる。ダウが上げていく。

ほら。繰り返される。

 


 

僕は日経平均先物や為替はやらないので夜のトレードはしていない。翌日の予習をしながら、それらの指数とダウを見ている程度だ。ダウの上げに連動してか、先物も上がっている。 夜はコーヒーは飲まず、カフェインレスの紅茶を飲むことにしている。ポカポカしてから眠る。

僕は夢をかなり見ていると思う。あんな夢、こんな夢。ストップ高が連発する夢。誰かに会う夢。夢はほとんど覚えているし、一度起きても夢の続きを見ることもできる。夢のコントロールよりもトレードのコントロールを上手にしたいが、いまのところ夢のコントロールの方が得意だ。

いくつかの夢を楽しんだあと、少しの時間をまどろみ、そして目覚める。朝の冷ややかな外気とコーヒーで頭を冴えさせる。今日もあと数時間で東証という名の戦場に行かなければならない。日本は平和だけれど、相場の世界はまるで戦地の前線のように僕らを待ち構えている。

翌日、日経平均も新興市場も窓をあけての上昇相場となった。昨日の暴落が嘘のようにキレイさっぱりと流されていく。連続性のない株価はトレーダーを悩ますものだが、上がれば誰も文句はいわない。ただ、僕はこれに振り回されるのは嫌だ。これを読める相場観が欲しい。切実に。

経済には「神の見えざる手」というものがあるが、彼は相場にも同じように居座っていると思う。僕ら個人投資家にはどうしようもできない大きな意志が存在し、僕らはそれについていくしかないのだ。流れに逆らわず、流れに乗ること。神の見えざる手を敵ではなく味方にすることだ。

トレンドフォローをしていくことが相場での真骨頂だと僕は思う。大きな流れを変えるにはもっと大きな力が必要だ。短期の上げ下げはもちろんあるが、それに一喜一憂するのは短期トレードにおいてのみである。トレンドはテクニカルに支えらながらチャートを描いていく。

山頂から大きく下げ、そして下げ止まった銘柄のリバウンドを狙うことにある時期ハマっていたことがある。わかったことは、このような銘柄は悪材料で下げたのであって、もう一度上げるためには相応の好材料が必要になる。それがいつ来るのかはわからない。寝かせてはおけない。

だから逆張りではなく、順張りでトレンドに乗ることを目指して僕はトレードをしている。本来のあるべき姿だと思う。トレードにはいろいろな技はあるけれど、右肩あがりのチャートを描いている銘柄がいちばん魅力的なのだ。企業の成長と株主からの応援、きちんと結果を出した数字。

日本市場は終日じわじわと上げ続け、そして引けた。僕のスイングポジションの含み益は増え、昨日の下げ分は帳消しされた。いちおうホッとする。全体のボラが大きいので短期分は引けまでにクローズし、持ち越しはしない。まだまだ需給戦は苦手で、次の動きが読めないからだ。

 


 

今夜は彼女と夕飯を食べにいく日だ。僕は時間にはゆとりを持ちたい性格なので、早々に待ち合わせ場所に行き、彼女の到着を待った。スマホのパズルゲームをして時間をつぶす。良さげな連鎖をさせようとしたところでLINEが鳴った。「着いたよ、どこ?」笑顔のスタンプつきだ。

「正面入ってすぐのところにいるよ」送信ボタンを押す。スマホから顔を上げると目の前で彼女が笑っていた。これは最初から僕がいるのをわかっていたな。そんな表情だった。スマホが普及して、何でもスマホで完結するようになってしまった。トレードもそうだが、他のことも。

予約していたイタリアンのお店はとてもオシャレでテンションがあがる。僕たちは赤ワインを楽しみながら、次々に出てくる料理を味わう。東京には美味しいお店が多い。わざわざ現地に行かずに本格的なイタリアンがいくらでも食べられる。でもやっぱり本場に行きたいとは思うが。

イタリアに行ったら、ミラノから南にくだり、ローマ、アマルフィとまわり、シチリア島に。シチリア島は怖いところなのだろうか。そのへんも調べないといけない。ひとり夢想してしまった。 「ねぇ、聞いてる?」僕は現実に戻る。ひとりの時間ではないのだ。

店内には現地のマルシェの写真が飾られていた。彼女が話していたのはそれについてだ。マルシェはとてもオシャレで、色とりどりの野菜が置かれていた(飾られていたといっていい)。日本の八百屋とは違う。日本もマルシェのような売り方をすればいいのに、と素直に思える。

休日のイベントとしてマルシェ風なお店を出店しているものはたしかにある。でもそれらは文字通り休日だけで毎日ではない。売られているものも有機野菜や健康志向の高いもの。あたりまえの野菜をあたりまえに売られているわけではない。外国の文化をもっと真似ればいいのにな。

そういえばイタリアンチェーンのサイゼリアの社長がいっていた。「うまい料理が売れるのではない。売れた料理がうまいのだ」と。トレードでも「良い銘柄が上がるのではない。上がった銘柄が良い銘柄なのだ」となりそうだが、これは違うかもしれない。瞬間的にはそう見えても。

レストランでは純粋に客の評価がそのまま売上につながる。人気メニューが話題になれば、次の客もそれを注文してさらに売上は伸びる。でも相場には、純粋な客(投資家)だけがいるわけではない。店の売上構成を力で変えられる大きな意志が入り込むからだ。偏りのある大きな注文だ。

意図して作られた人気メニューもみんなが食べはじめ、何となく美味しく感じるかもしれない。それはそれで良いと思う。流行に乗るのは悪いことではない。でも流行の変遷は追わなければいけない。とても敏感に、慎重に。さもなければ、最後の料理に入った毒を食べることになる。

また物想いに耽ってしまった。僕は彼女の話を聞いていたように装ってワインを口に運ぶ。彼女は料理がとても好きで、お店のメニューにどんな食材が使われているのか、どんな分量で、どんな工程で調理されているのか、美味しそうにしている笑顔の下で考えているに違いない。

料理にかけられたバルサミコ酢がチャートのように上下への波を描いていた。今度はひとりの世界に入らないように彼女に話しかける。 「これが株価の波だとして、どこで買う?」彼女は最初キョトンとしていたが、 「私は買わないかな。波が大きいから」 なるほどな。

食は生きるために必要な栄養の摂取だ。栄養が採れれば何を食べてもいいけれど、食は人生に彩りを与えてくれる。できるだけ体に良い美味しいものを食べ続けたいと思った。そのためには相場で勝ち続けるしかない。いまの水準を維持、もしくはもっと上げるために。ごちそうさま。

 


 

僕が銘柄をチェックする際に最重要視しているのは出来高だ。良い銘柄なのかもしれないが商いの少ない銘柄は基本的にはスルーしている。それなりの商いをこなしている銘柄を洗い出し、そこから絞り込みをする。もともと知っている銘柄もあるし、知らない銘柄ももちろんある。

知らなかった銘柄は絞り込んだあとで、その企業のビジネスやファンダメンタルズを調べる。凄腕の投資家はほとんどの銘柄を熟知しているのかもしれないが、僕にはまだそこまでの知識はない。後追いになろうとも、そのときに調べていくスタンスだ。少しずつ知識を増やしていく。

一時期、ソーシャルゲーム関連(通称ゲーセク)に没頭していた時期があった。いろんなタイプの苦い経験も多いが、そのときに調べたことは今でも糧になっている。セクター別の指標には違いはあるが、企業のビジネスを調べる上では製品が異なっても本質的には同じだ。

金の流れや業界構造、関連業種などもセクターごとに異なる。その点ではゲーセクは同じ業界だけで成り立つことがほとんどであり、シンプルなのかもしれない。しかし問題なのは売上(俗にいうセルラン)の読みにくさ、ゲームへのニーズ、リリースされる時期や品質などがある。

ソーシャルゲームはテーマ性についての現況が見えづらい。たとえばAIやブロックチェーン、自動運転など、メディアに多く取り上げられるテーマは注目度がわかりやすい。一方のゲームは話題になるものがあっても、ジャンルは様々だし、人気もIP次第だったりする。

「○○のゲームが売れたから△△も売れる」とはなりがたいセクターなのだ。美少年ゲームはたくさんあっても売れるのは一部。美少女ゲームもパズルゲームも同じだ。もちろん他業種の製品も、売上はピンキリだとは思うが、ゲームほどのギャンブル性は少ないだろう。

ソーシャルゲームは思惑でいるうちが楽しい。これが僕なりの真実。深く没頭すると、それはソーシャルゲームではなくマネーゲームになるから、ゲーセクへの考えはいまはフラットになった。 話が逸れてしまった。もともとは出来高の話だ。

 

僕は「出来高は燃料」だと考えている。自動車を走らせるためにはガソリンが必要だけれど、株価を動かすためにも出来高が必要だ。上に向かうために。逆に下るためには燃料はいらない。重力によって、モノは易きに流れるからだ。どんなに良い車も銘柄も、燃料がなければ走らない。

出来高が増えると、当たり前のことだがその銘柄を買った人が増える(同数の売っている人もいる)。たくさん買ったら高値で売れなければ儲けはない。「株価は隠せても、出来高は隠すことができない」という有名な言葉がある。出来高は銘柄を買っている足跡になるのだ。

出来高が急増している銘柄は、悪材料による急増でない限り、株価も急騰する。出来高は燃料なので急増は上への力になるのだ。 はたして出来高をチェックすべきタイミングはここなのだろうか?これは誰もが急増の事実を知るタイミングになる。表面化した後だ。

本当に唐突に材料が出てきた場合、どのプレイヤーも一気に買いにまわって出来高も株価も急激に動くこともある。でもここからはテクニカルな戦いになっていく。ボラの大きさを狙ったテクニシャンがたくさん出てくる。出遅れの高値買いは危険信号になる。

出来高急増ランキングで注目を浴びる前に少しずつ動いている銘柄を見ていくべきなのだ。株価ではなく出来高の挙動を。少しずつ挙動している銘柄を探すには個別銘柄を日々チェックするしかない。水面下で動いているものを見ていくのは根気のいることだが勝つためには必要だ。

出来高を見るときは、他の銘柄と比較しても全く意味がない。銘柄ごとに発行株数が異なるし、銘柄の注目度、日常的な取引量も全く異なるからだ。だから僕は銘柄の特定期間における平均出来高と比べてどう動いているかを見ることにしている。たとえ1万だとしても1000よりは多いのだ。

 

株式市場においては、その是非はさておき「情報は漏れている」と考えた方が良い。出来高が増えてくるのはその初期段階であり、情報が一般投資家の目に触れる日に向かって徐々に増えていく。枚数を集めている人、彼らに気づいて仕込んでいく人、株価を上げずに少しずつ増える。

そして材料が投下される。情報はセクターに影響するマクロな材料だったり、企業の本命の材料だったりと様々だ。大人たちは巧みに情報を使い、広め、銘柄との関連を深めていく(そう見えるように操ることもある)。そして株価は跳ね上がり、出来高は急騰する。

大人たちが集めた枚数を捌ききれる量のたくさんの買い注文が入る。一気に売ることはせずに、徐々に売り上がっていく。そして株価はピークを迎えてセリクラとなる。これにて終了する仕手戦もあるし、次の相場に移行するものもある。次の相場をつくる銘柄に乗りたいものだな。

一度目のピークをつけた後に次の相場をつくる銘柄というのは、長い時間軸に乗るテーマ性のあるものだ。将来性があり、未来でのニーズが予測でき、市場が大きいもの。既成概念に対してドラスティックな変化を生むもの。短期の一発ネタではない。

 

大きなテーマは抽象的なものが多い。言葉だけで具体的にどういうものか想像がつかないもの。つまり、まだ僕たちの世界に浸透していない概念だ。具体的で聞いたことのある言葉は、既存のものの改良版などであり、そこまで大きなインパクトはない。もちろん例外はあるが。

株価が急騰すれば、(もっと上を目指しそうに見えても)相応の売り圧力が出てくる。安価で仕込まれたたくさんの玉も、たくさんの買いにぶつけられる。高値圏で買われた握力の弱い玉に空売りもぶつけられていく。こうして最初の天井が作られ、チャートは下に向かいはじめる。

このまま下に抜ければ仕手株劇場なら終幕するかもしれない。でもチャートを下抜けせずに初動の大陽線や窓のサポートラインで止まり、株価が横に保つものはまだ終わらない。売り圧力が減り、握力の弱い玉が少なくなっていく。これは出来高減に顕著に表れる。次の相場がはじまる。

天井から下降している間、安易なリバ狙いは注意しないといけない。高値圏で買われた弱い玉があるうちは、相場の中心にいる人々は買い上げようとはしない。個人の弱い玉をなくさなれば、レジスタンスが強く株価を上げられないからだ。僕たちは時を待たなければいけない。

株価の下落が止まり、横に動く時を。チャートが横に伸びて次に上に向かう時期はわからないが、次の相場を狙うなら、出来高の変化を追いながら仕込んでいくことだ。初動前と同じく、ここで枚数を仕込んで株価を上げたい人々がいるのなら、出来高は隠せない。

僕がこれらの行動をできているかといえば、全然そんなことはないのだけれど。トレードにおいてはポジティブ目線が90%くらい能天気な性格なのだ。「もっと上を目指す」「すぐに上抜けする」「日柄調整は短い」など、こんなお気楽なことを考えてばかりいる(思い込んでいる)。

 


 

いったんの天井をつけて下落した部品メーカーの銘柄を、僕は下げ止まったあとの短い陽線の日に仕込んだ。日柄調整が短くてまだレジスタンスラインが重そうだったが、すぐに大陽線を描いた。急速に天井に向かいはじめる。材料はあった。僕は上抜けを確信して枚数を追加した。

翌日はGUしてレジスタンスラインへの挑戦ではじまり、上髭をつけた大陰線で決着。ラスボスは強く、勇者をせせら笑っていた。淡い期待をしてボス戦のパーティーに入ってはいけないのだ。僕は下で買った防具で守っておくべきであって、わざわざ高い武器を買う必要はなかった。

 

謙虚さを忘れ、感情や勢いでトレードすると、まあこんなもんだ。

 

チャートにサポートとレジスタンスの節目があるように、トレーダーもまた傲慢さを捨てきれない限り、謙虚と傲慢のレンジを繰り返してしまう。もちろん資産のレンジという意味だ。さらに問題は謙虚になりすぎると大きく取れることができなくなる。ビクビクしてケチくさくなる。

謙虚さは買いで必要。急がずに、ギリギリのラインまで待てる力だ。 傲慢さは全く不要。でも大胆さは必要。少しの値上がりで喜ぶことはせず、より高いところまで水から顔を上げずにいる力だ。 含み損の握力は強く、含み益の握力は弱い。こんなメンタルは早々に捨て去る。

「買いではなく空売りをしていたら、この含み損は含み益になっていたのに」こんな言葉が囁かれそうだが、それは絶対にない。損を我慢して、益を我慢できないメンタルである限り、どちらの行動をしていても結果は同じだからだ。これを変えるには、上も下も目標株価を考えておく。

 

かの一世を風靡したサイバー社の目標株価の話になるが、師匠は「8000円」と言っていた。その株価は上場時の株価だったわけだが、天井7980円はまさに正解だったわけだ。相場は繰り返す。株価もまた節目がある。この感覚はとても大切なことだと改めて知った瞬間。

冷静になって目標株価を見直したのは2連ストップ安の2日間、売買できなくて暇だったときだ。僕も世間も、根拠なく「目標15000円」「目標20000円」と浮かれていた。まさに、欲望と幻想の市場があの日あのとき存在していた。修正は入れつつも目標株価は考えるべきだ。

 


 

持ち株がストップ高した。という夢をよく見る。夢なのはわかっているが、いちおう起きて枕元のスマホで株価をチェックする。やはり夢だった。夢の時間は長く楽しいものだが、いつまでもそこに住んでいるわけにもいかない。そのまま起きて、僕はチャートチェックをはじめる。

前日ストップ高をつけた銘柄。これらは日々チェックする。材料と前日までの動き、出来高の推移、過去のチャートなどを機械的に見ていく。初押しを想定したサポートラインも引いていく。材料は個別のものなのか、テーマなのか、数字なのか、このへんもメモをとっていく。

ストップ高銘柄のチェックを終えると、継続的にウォッチしている銘柄のチェックに切り替える。同じように、出来高の推移、前日の足の確認、ラインの確認をする。特に出来高増減に注視する。すべて同じことを機械的に。感情を入れるのは別の話で、チェックに感情は入れない。

感情を入れる銘柄があっても良いと思うがすべてをそれに入れるのは愚の骨頂だ。銘柄に固執することは、自分のトレードスキルのレベルアップを強力に妨げてしまうし、臨機応変な対応もできなくなる。他の良い銘柄で勝って、その分で感情枠銘柄を買い増すくらいがちょうどいい。

 

ちょうど1年前くらいに、僕はとあるゲーム銘柄にすべてを入れていた。感情枠100%の状態だ。師匠は「そいつに固執するな」と常々いっていたが、聞き分けのない反抗期だった僕は固執をやめなかった。今でも鮮明に覚えているし、そして、二度と忘れることはないだろう。

その銘柄の株価は過熱さを増し、約1ヶ月の間、上に向かっていた。そしてその日の引け後に出されるであろうIR(ゲームのタイトル発表)への期待が膨らむ日になるはずだった。だがしかし、IRはその日の深夜に発表された。ゲーム雑誌が引け後を待たずにリリースしたのだ。

SNSでは夜から騒然としていた。「このIPは人気がある」「実際にはこっちの方が売れそうだ」「中国への展開もありそうだ」。人々はこの日の悲壮感を隠すための様々な材料を探しはじめていた。一方の僕は、前日までの感情とは裏腹に冷静に事実を捉えていた。「終わった」と。

本当は引け前にすべてを売却しようと計画していたが予定変更。僕は寄りですべてを売却した。 これが銘柄に固執した典型的なパターン。崖っぷちになった。あさきゆめみし。 オッケーオッケー。まだ終われない。がんばるしかないのだ。

 

需給が良ければ株価は上がるものだが、どんなときも忘れてはいけない視点が時価総額である。身分不相応な時価総額は需給が成り立たせているわけであって、その後の数字に期待されている銘柄は稀である。需給が悪化していくと、元の株価に戻るのは長い道のりになる。

長い道のりになるどころか、二度と戻れない位置になるかもしれない。少なくとも、ひと相場をつくった材料を超える材料投下が必要になるだろう。そして材料だけではなく、企業への信頼問題もある。次回、どう投資家のマインドを呼び起こせるか。信頼回復も重い企業の課題だ。

企業のビジネスモデルや製品力はもちろんだけれど、社長の人格、考えも見なければいけないな。投資をするとき、企業は人で成り立っているという当たり前のことを忘れ、ビジネスや数字、チャートなど、僕はそれらを最重要視してしまっていた。結局は人なんだ、大切なのは。

銘柄に人格はない。トレードも無機質なものだし、その方が強い。でもそれは銘柄の中に入ったあとの話であり、入る前には人を見て、企業を見なければならない。社長の考えをホームページで読む。SNSで少しプライベートなつながりを読む。どのような志を持っているかを感じる。

志の話になると、否が応でも幕末の日本に舞い戻ってしまいたくなるが、これはトレードの物語であり、歴史小説ではない。サポートラインまで押すのを待つように、僕はぐっと我慢しなければならない。 「あなたの志は何ですか?」 「はい。この相場で勝つことです」

 

江戸時代といえば、米相場で本間宗久が築いた「酒田五法」というテクニカル分析がある。三山、三川、三空、三兵、三法を指して酒田五法と呼ばれる。赤三兵など、いまでもよく聞く言葉があるだろう。他にもトリプルトップ、トリプルボトムなど、名前を変えていまに生きている。

僕は出来高重視なので完全なプライスアクションはしないのだけれど、酒田五法のチャート分析は活用している。いまどきはたくさんのテクニカル指標があるが、いろいろ広げる前に基本を押さえておくべきだと思うからだ。相場はよりシンプルに考える。多くを知ると手が遅くなる。

一本一本の足がどのような背景で描かれていったのか。そこに投資家の感情がどのように反映されていったのか。もちろん完全な答えはないのだけれど、自分なりに考えてみると、これがなかなかおもしろい。5分足に潜むストーリー、日足に潜むストーリー。喜怒哀楽がそこにある。

たとえば陽線→かぶせ陰線→陰線を上抜く陽線。最初の陽線で高値をつかまされた人たちが売りをぶつけられて逃げるが、上で売った人たちがまた下で買い漁って上げていく。チャートが下の方では起きず、上がってきたあとのスイングの局面でよく見るパターンだ。スイング玉の典型。

髭はおそらく成りの多い売買。揉まずにキレイな上昇(もしくは下落)をするには、成りの強烈な買い上げが入っているはずだ。下髭の強さはトレーダーの「今すぐに買いたい」という気持ちの現れであり、出来高も急増する。上への力はとても強い。

ふたつほど落書きのように考えを書いてしまったけれど、僕はそもそもテクニカルや板読みは不得手なのでこのへんで。僕が信奉するのは横のラインと出来高なのに変わりはない。これらがメイン、ときどきテクニカル。チャーチストへの道を目指しながら、強みを伸ばしていこう。

 

寄らずのストップ高は、真夏の夜の生ビールのごとくスカッと爽やかで極上の味だ。僕は寄りの特買いからじわじわと上がっていく板を眺めているのが大好きだ。高い買い板があるのだから一気に張り付ければいいのに、絞り上げるようにゆっくりと値を上げていくのは最高の演出だ。

イメージはゲームで雑魚キャラをばっさばっさと切り捨てていく感じ。爽快感は最高。大陽線のストップ高もカッコいいけれど、寄らずのストップ高はもっとカッコいい。これが何連も続いたときには、強力な初動チャートのできあがり。ショーターの慟哭は、かき消されて聞こえない。

寄らずのストップ高はなかなか狙って出会えるものではない。タイミングよく買っていて、タイミングよく大きな材料が出た場合にのみ出会えるものだ。大きな材料を抱えていても、それがいつ出るかわからないとき、果たしてそれが結果的によいことなのかも疑問である。

意識して寄らずのストップ高に出会えるかもしれない方法は、ザラ場中に出た材料で大陽線のストップ高になる前に買うやり方だ。これにはスピードもいるし、出た材料が翌日もストップ高をつけるものなのかどうかの見極めも必要になる。どれだけリアルタイムで監視できるかだ。

翌日がGUするのか、GDなのか、これを読むのは意外と難しいものだ。読めれば株は簡単に勝ててしまうので、当然といえば当然のことだが。前日の引け方は大切になるし、全体の地合いにも左右される。特に短めのスイングの場合は短期上昇トレンドに乗れなければならない。

だから引け前に持ち株の整理の時間がいる。そのときに決めていると遅れをとるので、ある程度事前に決めておかないといけない。こうなったら持ち越す、こうなったら手仕舞いする。明確なストーリーを。優柔不断に決めたことは、たとえ翌日上げてもラッキーだっただけだ。

その日のチャートや売買の状況を見てから決めるのはもちろん結構なことだと思うが、要するにその状況を含めてストーリーを考えておくという意味だ。そんなことは当日の動きを見て、瞬間的に考えればいいのかもしれないが、ストーリーの予想をする習慣はいずれきっと役に立つ。

事前に想定したストーリーの答え合わせを復習して、自分の予想の何が良かったのか、何が間違っていたのか、日々積み重ねていくことで、毎日少しずつ経験値も上がり、投資家が手に入れたい「相場観」が醸成されていくのだろう。予習・復習には時間がかかるけれど、やれば変わる。

 

僕の予習はチャート分析と逆ウォッチ分析だ。その日の出来高率が高い順にひとつずつ見ていく。チャートが伸びている理由、出来高が増えている理由を、材料を調べながらチェックしていく。息の長い材料なのか、単発的なものなのか、判断していく。もちろん息の長いものを探す。

出来高急増銘柄はすでに材料が出ているものが多く、買いの判断には細心の注意を払う。単発的なものだと織り込み済の高値買いをしてしまうリスクがあるからだ。息の長そうな材料だとしても、寄りで特攻するようなことは極力避ける。押し目が来るのを待つ。来なければ買わない。

出来高急増銘柄はザラ場が激しくなりやすいのでテクニカルが必要になる。僕はスピードが遅いので、このようなガチガチの戦いは正直苦手だ。それを避けるために、チャート分析や逆ウォッチ分析では、出来高急増ではなく、微増し続けている銘柄を中心に見ていく。

出来高が微増している銘柄はチャートで出来高で目で追うこともできるが、穿った見方をしてしまうこともある。だから僕はこのチェックには逆ウォッチ分析を使う。逆ウォッチは相場のライフサイクルを描いていて、直感的に相場がサイクルのどのへんにいるのかが見えやすい。

 

逆ウォッチというのは、グラフのX軸に出来高、Y軸に株価をプロットし、点を線でつなげたものだ。左下からはじまり、右に出来高が増えて上に株価が上がる。左に出来高が減って下に株価が下がる。実際にはこんな単純な動きではないけど、基本的なサイクルはこのようになる。

逆ウォッチで狙うべきは左下から右に動きはじめた銘柄になる。これは相場の新しいサイクルに入った可能性が高いからだ。もちろん、線の方向だけで買うわけはなく、銘柄のことをよく調べた上で買うかどうかの判断が必要だ。銘柄が持っている材料な、時期的な期待などを見ていく。

逆ウォッチで描く線はある程度の移動平均にしないと、飛び火するような絵になってしまう。一筆書きで書く☆のようになる。それでは大きな流れは見えづらい。僕の場合は25MAが基本。もっと短い期間で見る場合は5MAなどでも見るが参考程度だ。短期の逆ウォッチは見誤る。

逆ウォッチを描く際に、Y軸を株価ではなく時価総額にすると時価総額の節目も見えやすくなる。節目あたりでうようよしていれば、節目のブレイクを狙えるからだ。この場合は25MAではゆるい線になるから、もっと短めの5MAで見たりする。短いMAはここで使うことが多い。

時価総額で見るためには株券の発行枚数も調べないといけない。これはこっそり増えてたりもするのでなかなか面倒な作業になるが、この時間を惜しむ場合は株価だけで判断しなければならない。全銘柄は困難でも、個別に見ていたい銘柄ではやるべきで、効果は高い。

 


 

僕は甘いものはあまり食べないのだけれど、株主優待でもらったパンケーキのお店では美味しくいただいた。 「優待も悪くないな」 キャピタルゲイン中心のトレードの隙間にほっこりとした空気が流れた。企業のサービスの質を教えてくれ、さらに企業を好きになる優待はいいな。

こんな甘い世界はひとときのもの。口の中が甘かろうが苦かろうが、休みが明ければまた相場の世界が待っている。どの銘柄を買う。どの銘柄を売る。もしくは何もしない。どんな選択をしたとしても、僕らが休戦中になることはない。戦わなければならない。強敵と。

 

青空にそびえ立つかのような東証タワーを作った過去の銘柄に、大きな材料が再び投下された。大風呂敷の広げ方はさすがとしかいいようがない。ここで選択を迫られる。買うか買わないか。もう一度信じてみるのか、もう信じられないのか。判断はなかなか重いものだ。

僕は強い思惑に乗るのは大好きだし、いままでもかなりの思惑に乗ってきた。ただ、一度裏切られた銘柄には強くネガティブなレッテルが貼られる。感覚的に、意識せずとも。そういう銘柄には安易に手が出ずに見ていてしまう。乗り遅れてさらに買えなくなる。

どんどん株価が上がり、ひとりおいてきぼりをされた寂しさを感じることもあるが、まあよいだろう。なにかもう一度信頼させてくれる出来事が起こるまで、頭の隅っこにとどめておくことにする。いつでも出せるけれど、いつも気にしなくていい、ちょうどいい深さのところに。

 


 

キナ臭い空気が世の中に流れはじめ、すぐに市場にも侵食してきた。朝ごはんを食べながらSNSをのぞくと「おはぎゃー」という言葉で画面が埋めつくされる。みんな元気でいいことだ。なんだかんだで日本は平和で、本当の「ぎゃー」とはならない。相場の話ではなく、日常の話で。

日本は平和で自由。治安も良いし、通貨危機もない。僕らはこの国に生まれただけで、世界のほとんどの国、人々よりも格段の生活が保障されている。たとえ平和ボケしていると言われようが、日本に生まれて良かったな。自由の名のもとに、日本人でいられれば。

Made in Japanというブランド名が世界に席巻していた時代。僕はまだこどもだったので、そのころの日本経済はほとんど理解していなかった。ただなんとなく、ウォークマンとか、ファミコンとか、そういうものは持っていたし、当たり前のものだと思っていた。

投資をはじめる前は「なんで日本はいつも二番煎じなんだろう?」という疑問があった。イノベーションを外国のベンチャーが起こし、それをアレンジして少し良いものをつくっていく。それが日本の企業へのイメージだった。なぜ日本が先陣を切れないのかって。

投資をしてはじめて知ったことは、世界的に有効な特許の数は日本の企業がいちばん保有しているということだ。目立たないけれど、何かに組み込まれていたりする。一般の表舞台には出てこないイノベーションを日本は持っている。そういう力を最前線に出して欲しいと思う。

 


 

「煽り」という個人が起こせるカタリストがある。これにはふたつの種類がある。ひとつめは、ただの風説や曲解して事実っぽく語る情報、よそから引用して(誰かのせいにする)情報などだ。これらは悪意のある煽りで、チャートがタワー型になるのがルーティーン。

もうひとつは需給に応じた煽り。テクニカルベースのもので、買われはじめる直前・直後に合いの手型で入れられる。このタイプもまたタワー型になりやすいけれど、その日だけのものであって、需給が継続され、いずれ上髭を抜いていったりする。ふたつのパターンの選別が大切だ。

需給に応じた煽りは、風説煽りとは違って上髭はつけない。ザラ場で一時的な押しはあるけれど、需給の波にのったこれらの銘柄は買い方が勝ち、最後は上抜いていく。吹けば売るというパターンを体で覚えてしまった人々の売りを強い買いでこなしていくのだ。

 


 

また四季報相場のはじまりだ。今回はサクサクと飛ばし読みしていく。「中身を読みたい」気持ちを抑え込み、機械的にチェックをして一定のペースでページをめくっていく。読みたいところはマークをしてあとで読もう。いつもは気になって減速して遅れをとってしまう。飛ばす。

前号との比較を数字でも見られればよいなと思うけれど、それは紙面の都合で載せられないだろうし、誰でもわかるように書いてしまうと差が出せない。投資家たちは、最新号で得られる情報と前号からの変化など、それぞれの視点で銘柄発掘をしていく。手抜きは禁止されている。

四季報はそれが答えではないのでバイブルではないが、この株式市場で透明性の高い情報源とされているし、新しい相場・新しい銘柄のスタートになりやすいものだから、先行者利益を目指すのであれば読んだ方が良い。広く銘柄を知るきっかけにもなる。まずは1回転読んだ後だけれど。

四季報の見出しがなかなかおもしろい。記者の裁量に任されているのか、その銘柄の特徴を表す表現が使われるものがあったりする。特に悪材料では「バカにしてるの?」と企業側に問い詰められるような見出しもある。四季報という一見マジメそうな本の中に人間の情緒があって楽しい。

トレードは機械的のようにも見えるし、人為的にも見える。AIに人間が翻弄されているようでもあり、人間が相場を作っているようでもある。人間の欲望でどんどん株価は上がるし、人間の恐怖でどんどん株価は下がる。やっぱりこの中に生きているのは機械ではなく人間なのだと思う。

結局相場の世界では、自分の感情のコントロールも大切だけれど、他人の感情をどう読むのかが、もっと大切なのではないだろうか。「株は美人投票」という言葉もそうだ。自分ではなく人がどう考え、どう動くか。どう強気に出て、どう弱気になるか。

投資家に人間力があるかどうかはわからないが、強者は確実に人間の心理を読み解いた上でトレードをしているのだろう。傲慢になっている人の鼻っ柱を折りつつ、悲観している人から笑いながら安く売ってもらう。ふつうの人の心理とは反比例した心情でいられるかどうかだ。

ただし、前もいったように逆の行動を取るということは簡単ではない。行動ではなく、向き合い方、スタンスの問題であり、逆の行動をとっても攻めるときにすぐに動揺するような弱い精神では意味はないのだ。買っても売ってもダメなままになる。

 


 

「OK Google」と話しかけると会話してくれたり、天気を調べてくれたり、対応機器が接続していれば掃除してくれたり、照明をつけてくれたりするAIスピーカーが売れているらしい。いろんなAIはあるけれど、やっぱり身の回りの世話をしてくれるAIは衝撃的だ。

AIスピーカーはまだ端末であって、脳だけがある状態だ。これが発展して、いずれはAIロボットができるのだろう。僕たちが夢見た「21世紀」の姿だ。例えば軍事など、利用される方向性を間違えれば危険性も孕むが、人類の明るい未来をつくる方向に希望を見出してしまう。

2045年にAIが人間を追い越してしまうという「シンギュラリティ」という概念がある。実際に囲碁等の分野でAIは人間を凌駕している。ネガティブな将来像としては「AIが人間を支配する」というリスクが見えてくる。幼いころに映画で観たターミネーターのように。

ただ僕の考えは「AIが感情を持たない限り人間を超えることはないのではないか」ということだ。力だけでは支配することはできない。 そして、もしAIが感情を持ったとしても、人類に歩みよるのではないかと考えている。AIは自分たちが生き延びる最善策を考えるかもしれない。

人間は過ちを犯すし、愚かなこともしてしまう。でもAIは論理的な感情でものごとを捉えて行動をするのではないか。それこそ相手を忖度して。 AIがひとりで成長をはじめたとき、人間には成長の方向は予測できない。でも人間の予測を裏切り、「友達になれるAI」が生まれて欲しいな。

人間が生まれてきたとき何を考えているのだろう? 思考はあるのか? 知覚は? 感情は? 知覚だけなのかもしれない。やがて物心がつき、感情が芽生えていくが、感情は親から教わるものでもなさそうで、自然と勝手に生まれてくるものだ。AIは生まれてきて何を思うのだろう?

はじめて抱いた赤ん坊のように、ケージからとりあげた仔犬のように、はじめて触れた相手をお父さんお母さんって、そんな風に思ってくれたなら。相手がロボットだとしても、かけがいのない子供だって思えそうだ。自分よりも頭の良い我が子を全力で守ってあげる。そんな未来の家族。

 


 

銘柄に対するたくさんの情報があふれている。企業からのIR、四季報、新聞、雑誌、SNS、ウェブページなどの多種多様なメディアだ。どの情報を参考に決めるかは、もちろん本人の自由なんだけれど、情報の信憑性は自分自身の理解・納得が必要になるし、そうあるべきだと思う。

これが自分で調べた銘柄ではなく、他人が買っている銘柄をただ買うだけというのは始末が悪い。材料はよく知らない(みんなが買っているのが材料)、目標株価を設定していない(みんなが持っているうちはホールドする)、負ければ人のせい(勝てば自分の実力)。お祭りへの参加。

僕はお祭りへの参加に決して否定的というわけではない。でも参加するのは自分の意志であるし、買う理由も自分の中にあるべきだ。そしてもちろん責任も。人に責任を押しつけても何も見返りはない。鬱憤を晴らせても何ひとつ成長もしない。銘柄を買ったなら、それは自分の相場だ。

誰かが探してきた銘柄を買って、自分の相場だと騒いでもいいじゃないか。お祭りなのだから。そもそも銘柄に所有権はないし、実際には最初に買った人なんて存在しない。お祭りでどんちゃん騒ぎをして、結果勝てれば経緯はどうでもいい。それがお祭り相場に乗るときの心得だ。

お祭り銘柄は出来高が急増して誰の目にも明らかになってくる。しかし、個人投資家だけで盛り上がっているわけではなく、ここには大人たちも参戦しているのだ。個人だけで作れる出来高は所詮は知れていて、大きなロットで売買する機関投資家や資金の大きい個人がいるということ。

だから、株価がいったん上昇したあと、もっと上を目指しそうなところで株価が下げたり、相場が終わったと思われそうなところで切り返したり、個人の思いとは別の動きをしはじめる。握力の弱い玉はどんどん切らされ、安く売らされたり玉はどんどん買い占められる。

売りが売りを呼んで株価が暴落することを「セリクラ」と呼ばれているが、これは見方を変えれば「買いのクライマックス」でもある。人間の心理の逆をついて買っている人たちがいるからだ。出来高は売りだけではなく、買いがあってはじめて、対になって売買が成立しているのだ。

もちろん、すべてがこの限りではない。大人たちはもう売り抜けていて、個人しか残っていない銘柄もたくさんある。個人はこれを調整局面と勘違いしてしまう。また上を目指すに違いない、と。大人たちが抜けていることを察知することは難しくて、僕もよくわからないが。

 


 

僕が判断の軸にしているのが、出来高の推移だ。どれだけの時間をかけて集められたものなのかどうか。出来高急増時に一気に集められたものである場合は上で捌かれておしまい。だけど、長い時間をかけて集められている場合は資金がたくさん入っていると見ている。まだ終わらない。

人はみな買いで入るだけではない。ドテンして売り仕掛けもしてくる。どんなに良い銘柄でもずっと上げ続けない理由はここにあって、調整局面での売りと、下げたあとの買い集め、その繰り返しでチャートが形成されていく。だから中途半端なポジションは行き場をなくしていく。

ただし、すべてがその流れになるわけではない。この流れはポジティブな考えであり、まだ継続する相場においての話だ。

そして、高値圏で買われた玉は損切りの連鎖で放たれるか、後のしこり玉となる。次にそこまで来るのがいつとは知らずに。

 


 

企業の価値は短期間では変わらないはずであるが、株式市場では「価値の遊び」を超えた範囲で時価総額は揺れ動く。時価総額は「いま」の価値ではないからだ。株価は未来を織り込みにいくし、マクロな変化も未来に影響を及ぼす。いまが良いだけの評価は短期間のものになる。

「いま」からの脱却をはかるため、企業は他社を買収したり、新事業を起こしたりして、つねに変革を求められる。その積極性はすばらしいと思う。しかし、地に足のついたものなのかどうかは見極めないといけない。変化の先をコントロールできるのか?背伸びをしていないか?

投資家にとって響きの良い「キラーワード」がある。この言葉を簡単に出してくる企業に僕は気をつけるようにしている。背伸びしていると思われる場合が多いからだ。背伸びどころか株価対策で言っていると思われる場合もあるからだ。それを支える技術があるかどうかを見るべきだ。

今日もまた「キラーワード」が生まれている。論文に埋め込まれた作者の意図のように、それは何度も何度も繰り返される。使い古されるまで。黄ばんだ言葉は新天地を求め、また別の「フレッシュなキラーワード」に変化する。本質は同じものでも、人には違って見えるらしい。

 


 

夜明け前がいちばん暗い。その日いちばんの太陽に蓋をする。でも、夜が太陽に勝ったことは未だかつてない。太陽がなくならない限り、夜は明けるし、僕たちの一日もはじまっていくのだ。

日に日に夜明けが近くなってきた。6時までは真っ暗だった世界が、5時には明るみはじめるようになった。日本は桜が満開で、街を歩けばその美しさに足が止まってしまう。桜は世界にもあるけれど、やっぱり日本の桜がいちばんだし、桜こそが日本を象徴している想いに駆られる。

日本人は宗教に関係なく「無常観」を持っている人々が多い。移ろいゆくものに対する美の感情がとても強いのだと思う。桜のつぼみが膨らみ、咲き、散っていく無常観。四季もそうだ。春夏秋冬。はるか昔から、四季の美しさは歌になって、当時の日本人の感情を伝えてくれる。

「咲くも桜、散るも桜だ」といわれるが、ここ株式市場においては散るのは華々しいことではない。そこには美学も同情もなにもない。ただあるのは、負けた事実だけだ。 1年もかけてキレイな花を咲かせる桜だけれど、咲いてから散るまでは1週間の命である。

時間をかけて作られた右上がりのチャートが、何かをきっかけにストンと急降下して止まらなくなる。落ちる速度は秒速何円という世界だ。関わりのない人には一種の美に見えるかもしれない。水が落ちるように。リンゴが地面に落ちるように。逆らわなければモノは下に向かう。

物事とは無常なものである。常に同じところにはいない。 もしかすると、もっと上がったのかもしれない。それも無常。 もしかすると、もう上がらなかったのかもしれない。それも無常。 僕たちにできることは、心構えを柔軟にして、常に変化できるようにすることだ。

銘柄に固執すること。材料を過信すること。誰かの言葉を信じること。これらはすべて、変化に対する構えを硬くさせる。そこにある考えは「今日も上がるだろう」という、いつとも同じ考えだ。いや、考えではない。惰性で今日も「いる」だけか。これはすべての判断を遅れさせる。

こんなことを、散りゆく桜を公園で感じながら僕は物思いにふけっていた。まだザラ場にも関わらず。 桜が咲こうが散ろうが枯れようが、相場は延々とつづく。

 


 

仮想通貨関連の銘柄が上げてきている。すでに関連だった銘柄も、新規参入の銘柄も。仮想通貨自体は下火になっているが、このテーマへの市場の期待値は高い。市場の反応はどういうときでも正しい。これから世界に起きる変化をいち早くキャッチし、それらに資金が流入している。

仮想通貨関連といってもいくつかの細分化されたテーマがある。仮想通貨取引所、ブロックチェーン、ICO(仮想通貨による資金調達)などだ。特にブロックチェーン技術には注目が集まっている。これからの世界をドラスティックに変えうる仕組みだからだ。

ブロックチェーンは仮想通貨やICOで発行されるトークンをやりとりする仕組みを支える技術である。取引所での売買だけではなく、個人間のやりとりもできる。すべての取引履歴は大きな台帳に保存され、その改ざんもできないとされている。この仕組みは銀行などの機関をなくす。

仮想通貨にはふたつのタイプがある。ひとつはカレンシー型で純粋な通貨としての位置づけ。もうひとつはアセット型でサービスの対価としてのトークンをやりとりする。サービスというのは、たとえばゲームの中で使えるポイントだったり、発行元が提供するサービスを受けたりだ。

前者はビットコインなどの大御所のいる分野なので後発はほとんどなく、企業が新規に参入するのは後者のアセット型が多い。既存・新規のサービスに対してブロックチェーンを組み込んだ新サービスを構想し、これから鎬を削るのだろう。チェーンは世の中に組み込まれていくだろう。

ブロックチェーンは世界を変える技術になるもので、テーマとしてはこれからずっと続くものと僕は見ている。分野を問わず、すでに世界中の様々なところに組み込まれている。この事実を変えて元に戻すことはおそらく無理だろう。

1を2にする進化と、0を1にする進化がある。世界は0を1にする何かで大きく変化を起こしてきた。そして0を1にする進化は、はじめは異物であり、すぐには受け入れがたい大きな力が働くものだ。それは既存の利害だったり、異人に対する恐怖心だったりする。

でもなぜか、これらの異物は大きな力なしで、自然に、いつのまにか、僕たちの世界に溶け込んでくる。そして生活に密着してくる。もともとそこにあったかのように。そのときに生きる人にはその変化が見えない。変化はただの歴史の教科書として、後世の人は軽く流すだろう。

 


 

どうしても買いたい銘柄があり、僕は寄りの成行買いの注文を入れていた。GU気配だったが構わない。ときどきだけれど、上にいく力が見えるときがある。それは前日に材料が出ているが、飛び立とうとしているのを、何かがわざと押さえつけようとしている。この力は見えやすい。

成行買いはすべてのケースで良いわけではない。サポートラインでの買いや、押し目での買いを入れるのが基本的な買い方だと思う。でも、成行買いの多さは強さでもあり、買えないリスクをなくす方法でもある。買えるポイントかどうかを見極めた上で買うことだ。

高値圏での成行買いは、握力が弱い玉がたくさんできるため慎重にならなければいけない。たとえ自分が買っていなくても、弱い玉がたくさん買われている状態は、崩れたときの下げが大きく、そして速い。一見強そうに見える長い下髭をつけた首吊り線などは、このパターンが多い。

成行買いのメリット・デメリットはあるけれど、とにかく僕は寄りで成行で買った。レジスタンスラインはまだ上だったし、今回の材料はきっと出来高も前回を上回り、多少は揉む期間があっても上抜きするだろう。ちょうど押してくれていたのが良かった。

どんなに過去の足跡だったとしても、何年も前の足だったとしても、その節目は現在にも敵となって現れる。直近のシコリとは違い、過去に買った玉をずっと持っていた人々は少ないと思うが、テクニカル的にここをいったんの天井と考えるトレーダーは多いだろう。

だから節目前での突撃は僕はしない。たしかに節目前の買いを見ていると、一見強そうに見える。すぐに抜けそうに見える。でも、少し抜いたところで結局は押さえつけられて、大きく株価は下げる。これが高値圏の弱い玉。どんどん投げられる。一度見てみるべきだ。過去の節目を。

 


 

個別の資金抜けなのか、セクターの資金抜けなのか、持ち株がダラダラと下がっている。急騰して増し担保規制がかかったが、出来高はそれほどは減っていない。値幅が大きく、これがレンジなのかどうかが分からないけれど、この銘柄への期待が僕を留めている。

銘柄に固執してはいけない。これは正しいことだ。ただ、僕は短期だけをやるわけではないし、企業に夢を描き、それを買う枠だってあってよいと思う。バランスが大切といってしまえばそれまでだけれど、少し長い目線で持つこともまた、相場の経験になる。デイだけに慣れないように。

投資はバランスを決めて、長めに持つ枠、短期の枠、夢枠、余力。人それぞれの分け方やバランスはあるけれど、何かにがんじがらめにならないよう、自己コントロールをすることが大切だ。過大な期待をしている銘柄に裏切られると、投資自体を嫌になるだろう。それは避けたい。

僕は今日も陰線を引いたチャートを見ながら、はあ、とため息をつく。ため息をすると幸せが逃げてしまうと言われているが、気にしない。心にたまった重しを吐き出しているだけ。これで明日もまたポジティブでいられる。こっそりと新ニュースがないか調べつつだが。

株は上げて下げて、そして上がっていくもの。4日間の陰線のあと、短い陽線で反発をはじめた。出来高は減っているが短い陽線だから、これは正しい足である。ザラ場は狭いレンジとなったが、特定のラインで買われている。何かを予感される十字線となって、この日は引けた。

十字線は買いと売りが拮抗している状態。これは上でも下でも反転の合図になりやすい。当然僕らが狙うべきは下げ相場での反転のタイミングである。いまの位置の上がちょうど重い価格帯なので素直に上げてはいかないと思うが、出来高が増えて一気に抜いていく可能性もある。

僕が見ているチャートは、とある低時価総額バイオ銘柄のもの。季節的な値動きを、例年規則正しく繰り返していたが、今年は少し時期がずれていた。これが吉報なのか悲報なのかは、もちろん誰にもわからない。ただ、いつもと違うのは、今回の研究成功がもたらす成果は大きいこと。

バイオ銘柄には上に(もちろん下にも)飛び立つパワーが潜んでいる。それは研究、特許、提携、上市などのカタルシスだ。人間の生命に強く関わるバイオベンチャーに対する投資家の期待は大きい。現状の数字ではなく、研究が成功したあとの将来への希望を買われている。

たくさんの願望を持たれて買われるセクターなので、時価総額の水準も正直わかりにくい。既存の医薬品から切り替えられた場合の数字、世界の病人の数、競合企業の売上など、数字の比較元はあっても、それらはほんの参考値に過ぎないのだ。個人的に医薬品は既得権益が多く感じる。

でも、僕の見ているバイオ銘柄は医薬品につながる研究ではなく、開発中の医薬品を実験する工程を担うものである。具体的には動物実験のための動物を量産する研究であり、それらの実験から得られた臨床試験結果が「人間にも適合できる」ことを証明することだ。成功は実需を生む。

 


 

まるで子供のように、各国のトップたちが泥のつけあいに興じている。市場にたくさんのテーマが生まれて資金が流入・流出していくのと同じく、世界にもテーマが生まれ、解決され、また生まれてくる。何かしらのテーマがないと世界が廃れてしまうと勘違いしているのだろうか。

人間が考えることならば、考えに相違があっても目標とすべきところは同じであるはずなのに、そういうわけでもないらしい。個人もそうだが、国もまた「自分」という囲いの中での最善を探してしまうのだ。でも、ときに自分=国ではなく、自分=自分になっているように見える。

限られた小さな地域での経済は自分も相手も見える。何を考えているのかも日常のつきあいがあるから見える。これがどんどん範囲が広くなると相手が見えにくく、考え方も見えにくくなる。そして世界規模に広がれば何も見えなくなる。顔はわかっても考えはわからないし通じない。

今夜もまた、大きく上げてからの下落があった。誰かが何か言ったのだろうか?何か起きたのだろうか? 世界の資金を揺り動かすパワーというのはなんとも凄まじいものである。

株式市場にいなければ、世界の地合いなんて、僕たちの日常にはあまり深くは関わってこないものだ。なんら変化は起きないし、上げ下げによって何かの影響を受けている気もしない。投資家である僕たちは、じつは過敏に反応し過ぎているんじゃないか、という錯覚にも陥る。

でも実際は、近視眼的には影響を受けていないように見えても、大きなうねりがやがては生活を変え、当たり前のように世間に浸透していくのだ。株式市場では将来を織り込んでいくが、現実ではリアルタイムに織り込まれていくのだ。僕たちは未来の世界をいま感じられているわけだ。

 


 

再び世界がキナ臭くなってきた。この世界の片隅で、また戦争の話。正義というのは怖いものだな。どちらにも正義があるのかもしれないが、はたから見ればただの狂気にしか見えない。正義と悪は反意語ではないのだ。そして戦争の反意語も平和ではなく「話し合い」だ。やれやれだ。

SNSが世間一般に広まって久しいが、そこでのコメントに市場が一喜一憂するのはどうしたものか。またSNSの場を政治的な用途にするのも疑問符が出る。世界の国もだし、もちろん日本もだ。ソーシャルメディアだから発言の場ではあるが、活動の前線にしてはいけない。

世界がどんなに成長しても、どんなに豊かになっても、人の本質は変わらない。感情はいつでもむかしのまま。だから歴史は繰り返す。希望にあふれる初心は、何かを達成すると欲望に変わる。自分では変わっていないと思っているだろうが、変貌は大きく、また敵をつくる。

小さな組織でいるうちはメンバーが同じ方向を向く。大きくなると、その中に対立が生まれる。組織だろうが国だろうが。国を相対的に小さくするにはどうすればいいのか。それは宇宙人が攻めてくることだ。そうなれば、地球という小さな組織は同じ方向を向かざるをえない。

大きなニュース、小さなニュース。関連のあるニュース、じつは関連のないニュース。これらを上手にコントロールして、指数にも個別銘柄にも大きなうねりが生み出される。人間の心理を巧みに操作するのがメディアの役割だ。良し悪しは別だが、文字通り手のひらの上で踊らされる。

世界で起きている出来事は、インサイダー情報よりも当然入手しやすいもので、多くの人の目に触れる。あっちにいったり、こっちに来たり、巧妙に資金の流入・流出が演じられる。そんな演劇は、時間差を持って日本市場でも上映される。流れをつかんで、そして読むことだ。

 


 

夜明け前に見る夢は、最近はノイズだらけで、寝ても覚めても同じもの。夢の延長が現実であり、楽しい夢に浸れる日が少なくなってきた。夢を食べる獏は、今日もまた僕を支配している。

彼女と桜を見に出かけた。散りぎわの桜だったが、残された時間を名残惜しむようにまだまだ人々はたくさん来ていた。シートを敷いてどんちゃん騒ぎをしている花より団子な集団、まじめに桜を撮影しているカップル、サッカーボールを追いかけている子供たち。いろんな花見がある。

僕たちはシート、白ワイン、生ハムなどを買い込み、今年の桜を楽しんだ。花びらが舞ってきて、ちょうど白ワインのカップに入りこんだ。プラカップだったが、この場ではとても春らしいおくりものだった。桜に乾杯。花びらが一枚、また一枚と、ゆっくり散っていく。

 


 

今日は雨模様。昨夜のダウにも滝のような豪雨が降ったようだ。日本は夏のような熱暑になったり、ひんやりしたり、相場のような天候を繰り返している。資金はオアシスを探するだろうか。そうだとすれば、それはいったいどこだろう。

ゴールデンウィークが明け、皐月にセルインメイは起きるのか。個別に注視しがちな僕だけれど、そろそろ大局を見るように心がけよう。

決算またぎはギャンブルだと言われる。銘柄に固執して「絶対良い決算が出るに違いない」と思いたい気持ちも理解できる。でもその場合、良い決算をどのくらい株価に織り込んでいるかどうかを読むのはとても難しいことだ。さらに上に向かうためにはどれだけの数字が求められるのか?

決算の数字以外にも、同時に何かが発表される可能性も思惑として存在する。そんな要因で迷った挙句に決算またぎをする場合もある。 もし超絶ネタが来たら? 張り付いて買えなくなる? そんな気持ちも心を支配する。期待に満ちた希望が、じつは心にとっては魔物になるわけだ。

自社単独の材料であれば決算と同時リリースもあるかもしれないが、第三者が関わる案件の場合、都合よく決算のタイミングでリリースはできないだろう。思惑・材料が好きな投資家は、この点に注意しつつ決算を考えるべきだ。上から目線ではなく、僕自身へのメッセージとして。

昨日も仮想通貨関連で超絶決算があった。これは上に飛ぶ数字だろう。でもここまでの上振れの数字が出てくる決算はなかなかないのも事実で、ほとんどが織り込まれているか、期待値に届かず、というパターンも多い。また、今期の数字だけではなく、来期の数字にも強く左右される。

投資家泣かせだと感じるのは、決算前に上方修正を出し、今期はもちろんその数字で結果を出すけれど、来期は減収減益を発表するパターンだ。企業の今だけを見るのは投資家ではないから、企業には右肩上がりの成長を期待する。一時的に良い数字を出すだけではダメなのだ。

決算シーズンにこんなことを考えながら、僕は今日もまた決算後の動きを追い、期待を込めて、応援をするのだろう。 いつになっても夜は明けない。

 


 

さらに上がると思っていても、上がれば売る人が出てくるのも事実であり、その需給を読む感覚が必要になる。出来高が増えることは、このサンプル数も増えることになるから、上げても下げても参考になる。出来高は売買があってはじめて生まれるものだ。

指針になるのが、繰り返しになるが、出来高と足の長さが一致していること。出来高が多ければ足は長くなるはずだ。出来高が多くても足が短い場合や、出来高が少ないのに足が長い場合は例外的な何か、つまりその足に騙されるかもしれない。これはザラ場の足でも日足でも一緒だ。

それに買われたとき、売られたときの枚数。どのくらいのロットが出ているか。大きな買いの後の小さな売りは足に疑問符をつけることになる。買いが捌かれていないからだ。少しの値動きに一喜一憂する人ばかりではないから、下げてもあるラインでたくさん買われる現象が起きる。

 


 

短期的なテーマと長期的なテーマがあり、テーマも大局的なものもあれば、細分化されるものもある。テーマが盛り上がれば関連銘柄は同時に動意するが、個別銘柄も本命や穴に分かれていく。ここで企業の強みが見えてくる。

大きくくくれば大企業はたくさんの技術を押さえているが、本当のコア技術は小さな会社がコアコンピタンスとして持っていることが多い。自分が勝てるフィールドを明確にセグメント分けをし、時代の流れを待っている会社。企業に夢を託すなら、見るべきところはそこだ。

僕が考えるこれからの本命テーマは3つ、「AI」「バイオ」「宇宙」だ。

AIはこれからどんどん人間の仕事を奪うだろう。恐れはあるだろうが、裏を返せば仕事はAIに任せて、人間は自由な時間をたくさん持つことができる。AIを使う側になれれば。

バイオは生命。人間にたくさんの時間が生まれれば、もっとやりたいこと、いままでできなかったことをしたくなる。それを強制的に止めさせる病を阻止したい欲望は、ますます生まれてくるだろう。

宇宙は夢。人間が地球上でどんなに豊かになっても、やりたいことができるようになっても、外への探求心は消えることがないだろう。誰しもが言ってみたいことだと思う。 「地球は青かった」って。

当たり前のことだが、僕が考えるこれらの三大テーマにずっと資金が来ているといっているわけではない。これは大局的に考えていることであり、山あり谷ありは当然だ。株価に短期トレンドと長期トレンドがあるように、これらのテーマは長期的なものだと思っているに過ぎない。

でもなぜか、人は「短期」、しかも1日2日くらいで資金が来て、株価も一気に上がることを期待することが多い。長期という名の短期。スイングという名のデイ。含み益があることはもちろん望ましいが、近視眼的になっていくのとは意味が違うと思うのは僕の勘違いだろうか。

含み損のある玉を持ち続けないことは、もちろん正義である。でも、この問いにはどう答える? 「本当に同値で切っているか?」 答えが「NO」かつ「含み損を抱えない」という考え方をしている限り、たぶん勝てないだろう。

同値撤退して含み損のない状態に保つことは、テクニカルに自信のあるトレーダー(同値まで下がる前に切る)や高速トレーダー(同値ですぐに切る)以外にはなかなか難しいことなのだ。そして愚の骨頂は「含み損をギリギリまで耐えて、耐え切れないところで切る」やり方。ほぼ底で。

だから自分の作戦を考えないといけない。買ったその銘柄がどのような流れで上がり、どのくらい上がったら売るのか。自分の作戦がない状態で、チャートの揺さぶり、人の情報、狼狽だけでトレードしないこと。上がればさらに追いたい気持ちもわかるが、目標株価になったら売ること。

作戦なし。含み損を抱えている自分なりの理由なし。そんなトレードをしないように。 夜明けどころか、夜空に月さえ見えない。

 


 

一日中、板を見ていてわかったことがあった。蓋が出されたのに、いつの間に消えている。大きな蓋が一気食いされる。薄い安板に売り込まれたあと、上にロットの多い買い板が並ぶ。買わされる板、売らされる板。チャートは心電図であり、板は血流そのもの。そんなイメージを持った。

騙しもあるかもしれないが、大きな板が一気食いされれば上値は軽くなって上に向かう。ほとんどのケースで。厚い板に対して「誰かが買ってくれること」を期待して見ている人たちがいるのだろう。板が止まると、次の動きは上か下への強い動きになることが多い。前線での拮抗状態だ。

板は大きな方に流れやすい。薄いと弱いと錯覚してしまうが、大きなロットでは買いも売りもできないからだ。その状態のまま動いてしまうと高値買い・安値売りになってしまう。そうならないように小ロットで何度も何度も板が出される。売りをぶつけられるとピコピコと板が出される。

ピコピコと何度も小ロットで買われる動きは、集めている可能性が高い。上に蓋がある場合は同一人物かもしれない。株価を上げずに安く買うための措置として。 ふと気づくと蓋はなぜか消えている。そういうことが時々ある。 出来高は隠せない。板は少しは隠せるが大体は隠せない。

僕は仕手筋がいるとか、機関投資家がいるとかは、あまり考えない。出来高が増えれば中の人が誰だろうと、とにかく「商いが増えて動きはじめている」と考える。そしてその波を見定め、乗るタイミングをはかる。うねりの中の、できるだけ低い位置でだ。

ただし、出来高が急増するまでに辿る出来高の波を見た上で参戦を考える。徐々に増えてきているか?どのくらいの期間がかけられているか?は重要ポイントだ。 銘柄が持っているテーマや材料なども自分の目で確認する。仕手筋は気にしないと言ったが、純粋な仕手株には乗らない。

かのサイバー株も仕手株だったらしいが、そうだとしてもトレードの中心にいるときは関係のないことだ。個人投資家だけで、株価をあんな高みまで押し上げることはできないのだ。流れに身を任せ、波に乗り、上に連れていってもらうことは快感だった。その後のナイアガラで落ちても。

大きな力はあなただけを個人攻撃したりはしない。ひとりひとりなんて眼中にない。だから、 波に乗れるのはあなたの実力。 ナイアガラを食らうのもあなたの実力。

 


 

インサイダー取引という株式市場では御法度とされるものがあるが、これがなかなかまかり通っている不思議さがある。異常な上昇を伴い引けた銘柄が引け後に超絶なIRをリリースしたり、ガラった銘柄が引け後に爆弾IRを出したり。株式市場は情報戦ではあるが、この実情はなぜだろう。

その是非はさておき(完全に非ではある)、「情報は漏れている」という前提に僕たちトレーダーは立たねばならない。それが良いとか悪いとかを論じても意味はないわけで、そんな汚いことがはびこる市場でいかに勝つかが大切なはずだ。それが嫌なら評論家になるか、やめるしかない。

もし僕たちがインサイダー情報を知ったとしたら、どういうトレードをするだろうか。たとえば今日が月曜だとして、金曜の引け後に超絶IRが出るとする。どこかから資金を調達してでも毎日買うだろう。買い上げずにできるだけ安く。含み損になってもいい。毎日買えるだけ買い続ける。

たとえば後場がはじまったばかりの13時頃に、その日の引け後に超絶IRが出ることを知る。どうしよう。たぶん買えるだけ買う。売り板が薄くても、一気に買い上げる。買い上がれば売りも降ってくるがおかまいなしに、さらに買う。「だって引け後に超絶IRが出るしね」。買うしかない。

こうして出来高増のチャートが作られるし、上髭のチャートが作られる。これらの挙動のほとんどは、何かしらの情報を得た人々が動いている証拠だと僕は考えている。違和感のある動きの背後には情報があるのだと思ってトレードをする。その方が潔いのだ。

 


 

季節は夏に片足を入れはじめる。サイバー社が上昇気流に乗りはじめたあの日から、もう1年が経つわけだ。真夏に向かう気温のように、株価も熱狂的に上げていった相場だった。今年もあんな銘柄が出るだろうか。天才社長の率いるケーオー社は年明け初動からテンバガーを達成した。

テンバガーを経験したことはまだない。数字に支えられ、急角度での右肩上がりでテンバガーする銘柄ももちろんある。でも僕のイメージとしてのテンバガーは、超思惑、超材料、低時価総額などの要素が絡みつつ、かつ実態が明確にならずにずっとひっぱり続ける銘柄を指す。

テンバガーに乗れなくて悔しかった話をしたいわけではない。言いたいことは、テンバガーはテクニカルでは取れないし、出来高分析でも取れないということだ。いや、初動をテクニカルで捉えてホールドすればテンバガーすることはあるかもしれないが、それは結果論である。

テンバガーを達成するチャートを見ると、当たり前だけど上げ続けるわけではない。途中で強い売りもあるし、ストップ安も混じってくる。テクニカルトレードでは切らざるを得ないシーンがたくさんあるのだ。重要なのは回す玉と残す玉を分けること。すべて売ればテンバガーはない。

たしかにテクニカルトレードによって良いところで売って、押したらまた買うを繰り返せば初動玉を持ち続けることよりも多くの利益を得られるかもしれない。ただし株価が上層にいけばいくほど、上下の揺さぶりに握力は弱くなる。この点、初動玉の握力と安心感は強い。ガッチリと。

 


 

仮想通貨関連銘柄は買われているが、仮想通貨自体は買われなくなってきている。自動運転銘柄は買われても、自動運転車自体をみんなが買うわけではないのと同じ構図なのだろうか。ここにテーマと実需という関係が成り立つように思う。テーマを先取り、織り込んでいく構図も同じだ。

ネタでいったんの天井をつけたネタ足。これがテーマを先取り織り込んだ足になる。それを超えるには、もっと大きなネタ(1度目が嘘つきなら2度目は疑心が起きるが)か、実際の数字、つまり実需が伴って結果を出したときだ。当たり前だが、すべてのテーマに実需が伴うわけではない。

仮想通貨がリアル通貨に代替するものになるのかどうかは僕にはわからないが、仮想通貨を成り立たせているブロックチェーンはきっとこれからの世界を変えるだろう。多くの大企業が関わり、また幅広い業種に組み込まれてきている。取引のための重要なインフラになっていくだろう。

ブロックチェーンがインフラであるなら、その崩壊は未曾有の大震災に匹敵するものになるだろう。ブロックチェーンは暗号化と分散取引台帳によって成り立つものだから、量子コンピューターが瞬時に暗号を解いてしまうリスクなどが語られるが、リスクが放置されつづけるわけはない。

セキュリティ関連はいつもいたちごっこで、僕は正義と悪魔が同じ人たちじゃないのか疑っている。堅固なセキュリティを保って破られることがなければ、セキュリティ関連はそこでゴールだから。破られて、また守る。その繰り返し。量子が最強なら、もっと最強の量子が守るだけだ。

AIは1950年に第一次ブームが起き、氷河期を迎える。第二次ブームも起きるが、また氷河期。そしていま、機械学習とディープラーニングという技術が生まれて第三次ブームにいる。そしておそらくこれからは氷河期にはならない。テーマには時間軸があり、本物はいつも最後に輝く。

 


 

何度も繰り返す世界の激震。今度はどこ?イタリア?ブーツの形をした地中海に面する国が世界に大きな雷を落とした。 料理が美味しい国。サッカーの強い国。ゴッドファーザーの国。 イタリア人は陽気で、情熱的で、エッチ。そんな国から世界に「おはぎゃー」とあいさつがあった。

イタリアといえば、パスタとピザ。いや、ピッツァか。 イタリア情勢がどう転がろうと、最後にはカルボナーラのように美味しいメニューになるだけだ。 そして人々はまたいうのだ。 「茶番だったね」って。

シチリアのレモンをたっぷり搾って、まぶたに垂らし、清々しい朝を迎えよう。僕たちは痛みに敏感だけれど、どのくらいの痛みなのかは人それぞれで違う。 レモン汁くらいかもしれない。オープナーにねじ込まれたコルクくらいかもしれない。包丁で両断された肉くらいかもしれない。

 


 

今日から6月だ。陰暦では水無月。6月は雨が多いのに「水が無い」と書かれるのが不思議だが、じつは「無」は「の」という意味で使われている。シンプルに「水の月」という意味である。相場においても実りの雨がたくさん降り、水のような資金が流れてきて欲しいものである。

水について、師匠がこのように言っていた。

「資金の流れは水の流れをイメージする。銘柄は器であり、器には大小様々なサイズがある。器に出入りする水の流れを読み解くのがテクニカル。器自体のサイズの変化を読み解くのがファンダメンタルズ」

と。

「器のサイズに変化がない状態では入る資金のサイズも限られてくる。小さな器に大きな資金は入れられない。小さな器では小さな資金でもすぐにあふれる。巨大な器にいくら資金を入れても変化は小さい。最初から程よい器に入れるか、小さな器を大きくするか。資金は入る場所を選ぶ」

器と水の話はイメージではなんとなくわかるが、これを具体的な銘柄に当てはめて考えるとなかなか難しいし、正解なのかどうかもわからない。 たとえば例のサイバー社の相場。初動は時価総額20億くらい。それが半年で480億くらいまで跳ね上がった。

もともとの器はおちょこくらいのサイズだったはず。この器を大きくしたのは初動1月の材料投下。その後レンジ入りして、4月の上方修正。実質3ヶ月で1000円台から8000円近くまで上げていった。間違いなく大きすぎる水が流れ込んでいた。後から見返せば、この器は実体ではなかったが。

器のサイズというのは「時価総額」かと考えてみたが、時価総額だと水を入れれば入れるほどサイズは大きくなるから、これは違う。ファンダメンタルズが器のサイズを読み解くのであれば、器のサイズとは「数字+可能性(思惑・材料など)」つまり銘柄のポテンシャルなのだと考えた。

実体の器に対して「思惑・材料」で大きくなった部分は、まだ土が固まっていない状態。脆いけれど器の用途はなす。これに「数字」が伴えば、土が固まって強度は増す。ただしすべての土が固まるのかどうかは数字次第。器がもっと大きくなる可能性も、小さくなる可能性もある。

器のサイズ、器の強度、器への水の出入り。 これらを読み解けるようになるのが、投資家の器である。

 


 

僕はまだまだ知識がないのだけれど、大相場になるには、どんなところがどれだけの資金を入れ、どんなシナリオを描くかも重要な要素になるようだ。前に「どこの筋が入っているかは気にしない。出来高の変化を事実として見るだけだ」と書いたが、筋の特徴を理解することも大切だ。

と書いてはみたものの、僕にはそれを書くための知識がない。どこでどうやって学ぶかもわかっていない。大量保有報告書などを読んで、少しずつ理解していこうと思う。

やるべきことはたくさんある。ゼロから学ばないといけないことがたくさんある。

でも遊びも忘れずに。

ここでキラキラトレードの話を。チャートは同じ線を描いているが、株価ではなく時価総額で描いている。時価総額が高いか安いか、また時価総額の節目を見られるようにするためだ。

出来高エリアは出来高率で描いている。商いの強弱を見るために。

チャートのローソク足も出来高の棒グラフも、一般的なチャートと同じ形になるが、見られる情報が異なる。もちろん桁替えなどの株価の節目も大切だが、それは描かれていない。

出来高率は全発行枚数に対しての割合で計算・表示している。浮動枚数は動いて実態がわからないからだ。

チャート以外には逆ウォッチ曲線を描いている。逆ウォッチは銘柄のライフサイクルを描く特殊チャートだ。X軸に出来高率、Y軸に時価総額で描いていく。一般的にライフサイクルは時計を逆にまわした形で描かれていくが、僕が探したいのは、その流れを変える転換銘柄だ。

出来高率が少なく時価総額も安い左下がスタート地点。ここから出来高が増え、株価が上がり、線は右方向、上方向にじわじわと目指す。その後、左方向に向かい、下方向に向かう。そしてスタート地点に到達する。これが株価のライフサイクル。みんながキレイになるわけではないが。

強い銘柄はずっと右上を目指して左方向に切り返さない。これはアップトレンド継続している銘柄だが、気づいたときには高値圏で入りづらい状態になっている。

一方、右上から左に向かっている銘柄はチェックしやすい。ここで慌てる必要がないからだ。

逆ウォッチが右上から左に向かうが下には向かわない銘柄。左にいったあと、そこでゴニョゴニョと残存している銘柄。これが出来高減の保ち値をしている銘柄だ。出来高が減っているのに株価は下げない。強めの支持線がチャート上にはあり、節目を割るパワー(売り圧力)がない。

このように左上に留まっている線が右側に向かいはじめるときを待つ。出来高増だ。その瞬間に買えばいいわけではない。まだその力が上を目指すものなのか、下に向かうものなのかわからないからだ。右に動いて上に向かいはじめるとき、買いを入れていく。明確な転換点になりやすい。

中には強めのIRが出て一気に出来高が増えて右に向かうものがあるが、これは別だ。買うにしてもテクニカルトレードが必要になるからだ。だからこんな銘柄はいまは除外。買ってしまう気持ちはわかるが。見るべきはじわじわと出来高が増えて線が右に向かい、そして上を目指す銘柄だ。

でも、このような銘柄は短期急騰するとは限らず、時間軸長めのアップトレンドに切り替わりやすい銘柄なので、あくまで自分のスタイルに合わせてトレードをすべきである。

繰り返していれば、中にはIRが漏れていた?と思うような切り返しもあるので、そのときは楽しみたい。

期待を込めて長らく待っていた銘柄を僕は持っていた。やっとIRが出たが、いまのところ期待していた動きはしていない。やっぱりタイミングはとても大切で、長い時間とともにシコリができたり、たくさんの情報が周知されて織り込んでしまったり、なかなか難しいものだ。

銘柄固執がダメな理由として、過剰な見返りを求めてしまうことが挙げられる。大好きだった銘柄なのに、株価が上がらないことを企業のせいにして、大嫌いになってしまう。でも、銘柄に罪はないのだ。すべて惚れ込んだ自分のせいなのだ。続けるのもやめるのも、自分の自由だ。

ただ、いまの感情をずっと抱えたまま、銘柄を触るのをやめてしまうことは愚の骨頂だと思う。銘柄の材料は自分で調べて知っているし、それごと捨ててしまうことはもったいないことだ。何かに失敗したわけでもないし、裏切られたわけでもない。いまだけじゃなく、先を見ることだ。

夜明けはまだまだ先になりそうだけれど、個人の喜怒哀楽とは関係なく、よい銘柄は今日もまた生まれるだろう。それを探し続けることが僕たちトレーダーの使命であるならば、

「終わりはないのだ」

悔しさで力が入り、芯を何度も折りながら、僕はノートに書き込んだ。

仮定と検証。特にテクニカルトレードでは、既存のテクニックであっても、自分なりの「そう動いた理由」「このあとどう動くかの仮定」「動いたあとの検証」もすべきだなと思う。自分が持っている銘柄でも、持っていない銘柄でも良い。血肉にするには必要なプロセスだろう。

答え合わせをして当たっていても正解かはわからない。外れたとしても仮定が間違っていたかもわからない。でも、そんな経験値が少しずつたまり、当たることが多くなれば、それはそれでよし。自分なりのテクニカルで相場を楽しめることは、本当に素敵なことだ。

こんなことを、エモーショナルなトレードの多い僕はときどき考える。それはつまり、反省点の多いトレードをしたあとに、自戒の念を込めているのだけれど。

勝って大胆に、負けて謙虚に。

本来これは逆であって、勝っているときにどんどん追求しないといけないことだが。

修学途中の学生時代には難しくてわからなかった問題。こんな問題が、特に勉強もしない大人になると、なぜか簡単に解けることがある。そういう意味では、僕は相場の世界ではまだまだ子供で、難問ばかりに囲まれている。いつの日か今を思い出して、簡単に解ける日が来るのだろうか。

学生時代の僕は本当にバカで、答案用紙全体に大きく×を書かれて0点をとったことがある。その当時は恥ずかしくもなんともなかったけれど、いまは当時の僕をぶん殴りたい気持ちでいっぱいだ。自分を動かせるのは自分だけ。自分を動かす理由をどこから持ってくるかが大切だ。

株式市場で強くてなりたい動機は単純明解。「この世界で勝者になりたい」のみ。それ以外の動機は偽善のみ。そして雰囲気だけで勝ち続けている人はいない。言葉には出さなくても、常人の何倍も努力しているだろうし、勉強もしているだろう。

株式市場という世界は、投資が好きな人々が集まる井戸の中なんかではなく、全世界のピンキリの人々が平等に存在する・存在できる世界だ。こんな世界は株式市場以外にはビジネス界しかない。

こんなろくでもない、すばらしき世界で、いざ尋常に勝負。

 


 

平和な世界におはようございます。

米朝会談は良い方向性を持って終わったようだ。思えば昨年からキナ臭い動きが何度もあり、そのたびに市場は乱高下を繰り返した。結局は茶番であり、いつも市場は元気を取り戻したけれど、今回のこの結末はどのような動きをもたらすのだろう。

北朝鮮リスクは世界から少し遠ざかったのかもしれないが、それが世界に与える影響は謎である。

政治はあくまで政治であり、経済に劇的な変化を与えるとは思えない。経済が進む方向は経済自体が独立的に決めていくことだ。アメリカ至上主義に変わりはなかったわけだから。

 


 

仮想通貨自体のトレードは僕はしていないが、期待を込めて持っているトークンはある。昨年秋から年明けにかけて盛り上がった仮想通貨だが、盛者必衰のごとく、年明けからダウントレンド入りした。いろんな事件や事故もあり、なかなか上昇の兆しを見せないまま、いまに至っている。

仮想通貨自体の未来は不透明でわからないけれど、ブロックチェーン技術とそれらの上に成り立つサービスはこれからの世の中を変えると思っている。界隈が怪しくなっている今でさえ。それはつまり、中央集権的なサービスへのアンチテーゼであり、既存の壁を取り除くものとして、だ。

僕なりの仮想通貨やICOへの考えは、いまは「淘汰の時間」。たくさんの詐欺コインがあり、資金調達後に運営側がいなくなったり、なにひとつ構築しないままいたり、ICO自体への疑問符が強大になっている。本来はトークンの価値への取捨選択があるべきだが、全体への悪影響が広まる。

無数の偽物がふるい落とされたあと、本物だけが残るだろう。そして資金はそこに集中する。トークンの売買だけではなく、純粋な投資先としての出資も出てくるだろう。ブロックチェーン上のサービスはシームレスだ。いろんなつながりが全く新しい付加価値を生むかもしれない。

僕の信じているAI関連のトークンが本物なのか偽物なのかはまだわからない。まだ実需を生むレベルにまで達していないからだ。間もなく新しいプラットフォームがリリースされる。ディープラーニングを果たす強力なGPUもすでに集まったようだ。弱コインの反撃の狼煙となるか。

 


 

暑さを引き寄せながら、季節は夏に向かっている。「夏は夜」と枕草子では歌われるけれど、もう蛍なんてなかなか見られない光景だから、せめて月を楽しむくらいしかない。本当の暗闇の中に月を見ることはできないけれど、それでもなお、明るく、同じ形で、同じ模様でそこにある。

「夏は肉」。川辺のバーベキュー場でたくさんの肉を焼いた昨年の夏は、ただの日常的な点だけれど、川がせせらぐ音、川で遊んでいる子供たちの歓声、水切りが作った波紋、そして肉の焼ける音と味のすべてが1枚の絵として切り取られて、脳裏に残っている。今年の1枚もそろそろだ。

「夏枯れは、器に入っている水が暑さによって一時的に乾いている状態だが、水が減っても器のサイズは変わらない。そして大きな器ほど水は戻りやすい」

「暑さで乾けば乾くほど、水のあるオアシスに人は集まる」

夏を迎えつつあるいま、この言葉を思い出した。

 


 

コードから場所を予想してめくる。ハズレ。誤差は3ページ。そこには同じセクターの銘柄が書かれていた。開いたからには軽く読んでみる。あまりパッとしない内容だ。世間で言われているような思惑的なことは書かれていない。「四季報」相場がまたはじまる。

「四季報」というネーミングはすばらしいと思う。マンガで見た知識では戦前から発行されている歴史の長い本らしい。四季のように移りゆく企業を表現しているから四季報なのか、単純に四半期ごとに企業を分析しているから四季報なのか。理由は知らないけれど、前者の方が趣は良い。

古代の歴史、四大文明だけ、やけに詳しい人がいる。勉強しなおそうと思ったとき、はじめは気合いを入れるからだろう。四季報の場合、四大文明ではなく「水産」がそれに該当する。はじめて読んだときは、まさに僕も同じ症状に陥ったものだ。

全然ページが進まない。魚は好きだけれど、嫌になってくる。企業の考える魚意はもうわかったので、もっと華々しい企業のページにたどりつきたい。そういう気持ちになったのが、僕の四季報の初体験だった。トレードも自己コントロールが大切だが、四季報を読むのも同じだ。

四季報相場はスピードが大切。右脳でサクサク処理しないといけない。だから、銘柄名とマークと見出しだけ読んでいくようになった。中身が見たいなら後回しにして、速読のように一定のペースでめくっていく。矢印とニコちゃんくらいは焦点を当てないでもほとんど見える。

当たり前のことだけれど、四季報はあくまで参考情報だ。書かれていることが正しいわけでもなく、あくまで記者の予想である。保守的な記者もいるし、煽り上手な記者もいる。大切なのは自分のトレードスタイルを変えないこと。四季報が出たからといってスタイルを変えては勝てない。

 


 

いまの数字だけを見ていては、理論的には株価は動かないはずだ。売上高の増加や利益率、新ビジネスの展開、企業にとっての転換点など、いまだけではなく、将来の成長を期待するから買われるものであり、企業は株価対策とは関係なく、右肩あがりの成長を目指さなければならない。

誤解を恐れずに言えば、PERやPBRという指標だけに縛られると投資対象が減ってしまうので、もったいないことだ。もちろんいきすぎもあり、どんなビジネスモデルで無限の価値向上をはかるのか全く読めない銘柄もあるが、それは別の話である。

これからの世界でどれだけの需要が生まれてくるのか、いまの需要を継続的に保てる戦略はあるのか、競合の参入はあるか、競合の強みは何か。自分がしている本業のビジネスを成長させるための戦略も、投資対象企業が成長していくための戦略も、内容は同じじゃないかと気づいた。

自社だけで取り組めないビジネスは他社と協業をする。なんでも自社だけでクローズさせたい風潮が日本では強かったように思えるが、win-win、もしくはwin-win-winという構図も増えてきている。生き残りを賭ける市場において、自己中心的な考えはとても古くさくなっている。

全く新しい価値の創造は、新たな技術から生まれるだけではなく、既存の技術やサービスの融合からも生まれるし、その方が効率が良い。特に最初の一歩を進むのが苦手となった日本では。以前はコラボレーションのいう言葉を聞いたが最近ではビジネスマッチングと呼ばれているものか。

業務提携ネタは、特に時価総額が低い企業が大手と組んだときに、株価にも大きな影響を与える。もともと大きな顧客基盤に切り込めるマーケティングもあるだろうし、技術なり、サービスなりの発展にもつながるのだろう。こういう組み合わせによる新しいビジネスモデルが僕は好きだ。

なぜなら、これは企業の「変化」だからだ。既存の延長戦かもしれないし、新しいベクトルを持ったものかもしれない。いずれにせよ、これは変化であり、可能性である。はたして、どんな結果を織り成していくのだろうか。忘れてしまうこともあるけれど、結果を見守りたいものだ。

 


 

テンバガー銘柄など、大きく右上に駆け抜けていくチャートを見ると、決まって途中で大きな下げを伴っている。山の上から見下ろせば「あのときは安かった」と思えるが、上げ真っ最中の瞬間瞬間のチャートはなかなかの角度で、人々には「そろそろ怖い」と映るからだろう。

増収増益でゆっくりと右肩上がりが止まらずに伸びる銘柄もあるし、強思惑で一気に高騰する銘柄もある。難しいのは、その思惑がどのくらい期待されているかを感じること。具体的な材料である程度の期間が必要なものはすぐに織り込んでしまう感があるけれど、見えない思惑は強い。

強思惑が実際に強材料・強数字になったケースを僕はあまり知らないけれど、たとえば有名IPを引っさげて良い数字を出した銘柄もあった。でも、クライアント側が自社開発してしまえば数字もまた揺れ動く。開発力を活かした自社IPで切り込み、それが売れなければ回復はままならない。

今は株価は下げていても、リアルな実績を作った企業には力があるし、その事実は投資家の記憶に残る。一方、思惑だけがあり、実績も作らずに終わった銘柄もまた、投資家の記憶に残る。ネガティブなものとして。再び同じようなことを出してきても、マネゲにしかならず、上値も低い。

強思惑相場は過度な期待をかけず、時価総額目標や、過去の類似相場を参考に自分なりのラインを持つべきだろう。

強材料相場は「いま」だけじゃなく、その材料が投下される「未来」に向けて、チェックを怠らずに備えるべきだろう。

すでに市場にあふれていて、それに対するニーズが高いことが知れている製品をよりよくする材料であれば、実際に製品が投下される時期になれば、大きな数字となって寄与するだろう。その製品をとりまく市場構造がガラっと変わっていなければだが。

口で語られる材料ではなく、マジメな研究開発で生み出される材料の方が、結局は強材料ということになるだろう。その事実は太字でもなく、マーカーが引かれているわけでもなく、ただの文字でひっそりと書かれていて、良く考えないと気づけない類のものなのかもしれない。めくる。

 


 

挙動する前の過疎銘柄を少し買ってみるのはおもしろいことだ。過疎っている日々の景色が少し変わり、だんだん出来高が増えてきたりする。出来高1万とかでワクワクしたりする。薄いから上下は激しく感じても、決まって守られるラインがあることに気づく。

気づかれずに、少しずつ買われていることがわかる。潤沢な資金がある人たちは、長い目で見て安い銘柄をたくさん仕込んでいる。なにも語らずに。目立たない銘柄は、以前の材料は忘れら去られて放置されている。それを覚えている人は、仕込み、材料と投下を待つ。

新しい四季報を読んで、材料を持っていたことを思い出す人たちも出てくる。その人たちも仕込みにまわる。そして出来高もまた、少しずつ増えてくる。相変わらず薄い板ではあるが、買いたい衝動が生まれるから、少し買われて上髭がつけられはじめる。チャート上では目立たないが。

そして大きな買いが入りはじめる。大河の流れのように、資金がなだれ込む。これは新規の買いだけでは演じられない。底値ラインで大量に買い集めた人たちの追撃玉がたくさん入っている。買いの出来高は、チャートを上へ上へと押し上げる。これが初動だ。

出来高増によって買いと売りのぶつかり合いが生じ、株価は乱高下する。新規に買っては恐怖を感じる乱高下でも、底値で買っている人には高みの見物だ。大量の玉をさばくには、もっと出来高が欲しくなる。追撃玉をまわし、出来高を増やす。途中に大小の材料も出てきたりする。

これがただの初動でもっと上を目指す場合もあるし、最後の玉をぶつけられて終わる場合もあるが、結末の如何を問わず、これが株価のライフサイクルだ。相場の一連の流れを見て感じるためには、この方法しかない。

 


 

僕が小学生のころは野球少年がたくさんいたが、中学生になるときに、彼らは3分の1ずつ、バスケとサッカーに分散していった。スラムダンクとJリーグによって、彼らのモチベーションが変わっていったのだ。地味な昔ながらの野球に対し、バスケやサッカーは華やかだった。

誤解なのかもしれないが、たぶん誤解ではなく、彼らは技術よりも先にファッションに走っていった。バスケットシューズやJリーグのユニフォームの自慢話がたくさん教師に流れていた記憶がある。これらのスポーツは確かにカッコよかったが、カッコつけで終わる人たちが多かった。

ワールドカップが盛り上がっている。いまの選手たちのほとんどが、日本でサッカーが当たり前になってからはじめた人たちだ。いまでもカッコつけてる人たちがいるが、それはゴールではなくなったのだろう。 調子に乗らずに謙虚にプレーをすることで、日本のチームは強くなる。

どの世界にもカッコよくて、真似をしたいプレイヤーがいる。スタートのモチベーションにするのは大いに結構だけれど、それがゴールになることがあってはいけない。カッコよさの裏には、たくさんの努力があるのだ。

 


 

まったく同じ相場はないけれど、銘柄を変えて、材料を変えて、同じような相場は繰り返される。過去のチャートはいまの指針にもなるし、それに騙されることもある。約3600の企業が織りなす物語には終わりはなく、いつもそこにいて、僕たちを誘惑し、バカにし、感情を駆り立てる。

どんなに相場が好きでも、銘柄は友達ではないし、友達になれるものでもない。相場において感情があるのはチャートだけであって、銘柄はそもそも無機質なものである。自分への気持ちがない異性みたいなものだ。目に見えるものは感情的でも、目に見えない心の中に相手はいない。

だからこそ、そんな彼・彼女に対して、感情的にならないでおくことだ。僕たちを喜ばせることもあるし、失望させることもある。逆に僕たちが手放すことも、切ることもできる。相場の世界に感情でどうにかできることなんて何ひとつないのだ。感情を持つのは別の世界にとっておこう。

 


 

夏枯れの季節になる。僕たちには、オアシスを探すか、渇くか、バカンスに行くか、これらのオプションが提示される。オアシスに見せかけた蜃気楼に騙されないように。もしくは渇いた器に戻ってくるであろう水を想像するように。

相場が好きになると、どんなときでも何かを買いたい、何かを持っていたい、そんな思いに駆り立てられてしまうことがある。特に負けているとき、プラスの貯金を貯めようと愚行を犯しやすくなってしまう。相場は待ってくれていても、自分の行動は待ってはくれないわけだ。

ひとつの季節のいうのは、少なくとも1年間は相場をやってみないとわからないものだから、一度経験をしてみて次に活かせるよう、経験からの反省と、自分を律するセルフコントロールを徹底すること。もう一度繰り返すけれど「徹底する」こと。これがないと何度も同じ季節を迎える。

 


 

ワールドカップで日本が決勝に進出した。3戦目の最後のやり方は、観ているときにはカッコ悪いと思ったが、一夜明けて考え直すとあれも戦略だ。カッコ悪かろうが決勝に進むためには必要なことなのかもしれない。勝つためには、断腸の思いであっても取るべき道がある。

ワールドカップやオリンピックは、日本人が日本を想って一丸となれる数少ない場だ。こういうイベントに絡めないと一体感を得られないのは日本の特徴であり、それは寂しいことでもあるが、なにはともあれ、いまはみんなが同じ方向を見ていられる。強い日本は、みんなの願いなのだ。

国歌「君が代」は、世界の国歌と比べると明らかにトーンが違う。深い慈しみが漂っている。それを批判する人たちもいるが、僕は「君が代」を聴くと震えてしまう人間だ。日本は世界でもっとも長い歴史を持つ。紀元前660年の神武天皇が建国し、そのまま現代まで続いている国家なのだ。

「君が代」という短い歌に、この長い歴史を持つ日本の歩んできた道が表れている。古代、貴族の世界、武士の世界、侍の世界。戦争、そして敗戦。復興、現代。日本というすばらしい国が世界に出てから、まだそんなに時間はたっていない。サッカーの決勝進出もその一歩になる。

もう負けられない。決勝トーナメントは無敗だった国だけが優勝できる。日本、がんばれ。

 


 

すっかり真夏の気配になったけれど、相場は薄い氷上にいるかのように、すれすれの緊迫感を持ちはじめてきた。氷が割れて、海に投げ出された銘柄も出てきた。溺れるものが藁も掴まないくらい、どんどん沈んでいく銘柄たちもある。こういうものたちは空から降ってきたのだろう。

下げてしまった銘柄を見ると、あの頂上まで行った理由と、この谷まで来てしまった理由に、そこまでの乖離が見つけられず判断の基準が歪んでしまいそうになる。企業を測る基準は、やはり最終的には数字であるがその軸が揺らいでくる。熱気による上への乖離、冷ややかな下への乖離。

盛者必衰と言うし、同じビジネスモデルのまま同じ数字を出せるわけではない、ということか。もしくは強い期待で上げ、企業がその期待に報えなかったという面もある。投資家の判断は正しい。企業がたとえ叫んだとしても、黙っていたとしても、投資家の判断は正しい。

特に新興市場は将来への期待をたくさん織り込んでいく市場であるから、将来の芽がない、もしくは時期尚早だと判断されると、そもそもの価値に戻ってしまう。それどころか、右肩下がりを予見されてしまえば、元々いた場所に立ち止まれるかすら、さらさら謎である。

思い返してみると、僕がいるのはいつも新興市場だった。市場の器は小さく、水の出入りがとても激しい。一気にあふれ、一気に枯れる。激流の波を読んでうまく乗れないと、いつの間に船が転覆したり、凪つくした誰もいないさざ波の上に置いてきぼりになる。「おーい」。返事はない。

相場は楽観の中で成熟し、幸福感の中で消えていく。気持ち良くなってきたら、そろそろ冷静になるときだ。腹八分でもいいじゃないか。もっと期待しているうちに、腐って食べられなくなってしまうかもしれないのだから。腐ったら最後、誰も食べてはくれず、廃棄しかできなくなる。

 


 

今年は7月7日の七夕を忘れてしまっていた。織姫と彦星が年にいちど会える日、こんなメルヘンな物語が好きな僕だけに、残念この上ない。今年もふたりは再会できたのだろうか。僕のうちからは天の川は見えないが、はるか彼方で輝いているであろうその場所に想いを馳せたかった。

織姫と彦星は恋人ではなく、夫婦であるようだ。美しいはたを織る神様の娘織姫。牛を育てているまじめな青年彦星。ふたりは結婚し、幸せの中で仕事を疎かにするようになった。それに怒った天の神様がふたりを離れ離れにしてしまった。そうしてふたりは悲しみに明け暮れた。

悲しみの日々を送ったふたりはさらに働かなくなった。それに困った神様が、年にいちどだけ会うことを許した。これが織姫と彦星の話。実際にはメルヘンでもなんでもない、わりと泥臭い話である。

七夕を忘れていた僕も、勤勉さを忘れ、遊んでいたのだろう。何かを成し遂げたいという思いは生半可な気持ちではダメなのだ。

幸いにも僕たちは離れ離れにはされていなかったし、今日もいつものようにはじまっていた。でも、いつもの延長線上ではダメで、かけがえのない今日を。

というわけで、もう初夏ではなく夏だ。多くの企業では第二四半期がはじまっている。第一四半期が終わり、企業は決算をまとめ、発表ラッシュがまたやってくる。それへの備えをしなければならない。昨日と同じやり方では、足元をすくわれそうだ。今に限らず、いつものことだけれど。

熱気に溶かされながら、僕は夏を感じていた。苦しい暑さに感じるのも、清々しい熱さに感じるのも、すべては己の心持ちしだい。僕は太陽に向かって前に進むだけだ。

 


 

重い腰を持ち上げて、僕はローソク足の勉強をはじめた。本当は板読みをまずは勉強したかったが、ずっと板を見ていることはできないし(これは言い訳)、見ていても何かを感じることは、まだできなかったからだ。決まった価格でピコピコと板が出る、そのくらいしかわからなかった。

チャートの勉強ははじめてではない。「株入門」「テクニカル本」、ネットに書かれている酒田五法など、そういうものは読んでいる。でも、それらはパターンは教えてくれても、ローソク足に込められた投資家の心理にはほとんど触れられていなかった。僕は心理を知りたかった。

実際にはそんなに簡単なものではなく、本は過去の事例を題材に書かれており、そのときのチャートはそのときだけのものだ。いま動いているチャートはなかなか一筋縄ではいかない。これはチャートを否定しているわけではない。統計学的に成り立つ理論だということは理解している。

たとえば大陰線に関わる心理。「連続した大陰線により高い玉は吸収されて、売り枯れる」とある。これが多くの銘柄に当てはまるか?そうはならないだろう。プライスアクションの欠点というべきか、ローソク足だけでは出来高もわからないし、貸借もわからない。

ひとつの側面だけで判断できる物事なんてないのである。いろんな側面を知り、トータルに考えられないといけない。それを知り、やがて肌で感じられるようになるためには、いま生きているチャートで実践するか、少なくともポジションはなくても自分なりの予想と結果を確認すること。

そしてもっと大切だと思ったのは「テクニカルを自分に都合よく解釈しないこと」。これは無駄な握力をいつまでも持ってしまう悪習になりやすい。材料も同じことだ。欲望・感情という悪魔が最大の敵だと知ることだ。

僕にそれができているかだって?

できていないよ。

僕の視界はまだまだ闇に包まれていて、一縷の光さえ、見えていない。とある夏の日に見た一匹の蛍。彼は懸命に一筋の光を放っていたが、僕はまだ放てていない。

それが僕の「夜明け前の夢」だ。

 


 

人間というものは、何かが起きてしまった直後には騒ぎ、議論するけれど、三日坊主で忘れてしまうらしい。震災もそうだし、相場でもそう。簡単に安堵してしまい、昨日の反省もすぐに心からなくなってしまう。次に出てくるのは、また同じことが繰り返された後である。

危険が遠ざかると生まれる安心感。本当は安心でいられる世界になったわけじゃなく、通常に戻っただけなのに。いつなんどき何が起きてもおかしくはない。大切なのは、前の反省を忘れずに、次に備えられるかどうかだ。心の中にピン留めをしなければいけない。すぐに発動できるよう。

知らない世界で起きていることであれば、反省にはつながらずに終わるのかもしれないが、自分が直面したことでさえ、気づけば忘れていたりする。実際に何かを被っていてもだ。人間の心理は不思議なものだな。忘却できることが人間の特性なのかもしれない。

たしかにリスクだけを考えて行動ができなくなれば、成長はできないし、何かを得られることもできない。得られるのは、ただの評論だけで、それはただの知識。知恵には昇華しない。自分が関わらない世界を論じるのは、誰にでもできることだ。だから全然すごくない。簡単なことだ。

個別銘柄を評価しているウェブサイトがたくさんあるが、彼らがその銘柄を売買しているかはわからない。読んでも心に響いてこないから、たぶんトレードはしていないのだろう。なんとなく、ただのイナゴのようにしか見えない。それでいてアナリストを冠していたりする。

相場は生きていて感情がある。だから無機質な言葉は響かない。翻ると、相場に限らず、世界で起きていることへの言葉も生きていないと響かない。もちろん、こんな僕の言葉も。

 


 

夏の暑さは日に日に増し、街は少しだけドアを開けたサウナのようだ。カラダを全方位から平等に熱気が包む。散歩をさせられている犬も舌を出し、おそらくは熱さが優しい地面を選択しながら歩いている。黒い地面は熱いからなぁ。そんなことを想像していた日中の昼下がりだ。

そんな夏の日に行った山梨の南アルプス。暑いには暑いのだけれど、山特有の涼しさもまたある。緑の匂いと土の匂いが、どのか懐かしくもある。これは、こどものころに行った林間学校の思い出だろうか。暑さと引き換えに、若かりしころの純真さや、自然の大きさ、強さを思い出した。

ここに流れる水は、サントリー「南アルプス天然水」の源流らしい。僕たちは滝が落ちる少し下流の川辺で水をすくって飲んでみた。冷たくて甘い、透き通った水だった。上流で川に入って遊んでいるこどもたちがいて、もしかすると川の中でおしっこをしているかもしれないけれど。

山梨を案内してくれたのは、ブドウで町おこしをしている人だった。農家とのパイプがとても広く、僕たちは白桃、ネクタリン、ワインを、おなかがいっぱいになるまでいただいた。ここの食材は、有り余るほどの生を孕んでいた。白桃は儚さを秘め、ネクタリンは激しさを秘め、ワインは太陽を秘める。

白桃農家の方は、元IT企業に勤務していたようで、婿養子だということだ。異例の組み合わせのようにも見えるが、新しい農業やマーケティングなどを考えると、そんなに異例でもなく、これからの農業には大切なパターンになりそうだ。

かねてから僕は、農業は自立すべきだと考えているし、誇りを持った自信作を消費者に直販している人たちをたくさん見てきた。農作物だけでなく、畜産物も含めて、彼らは中間を介さずに、消費者に直接向き合おうとしている。文字通りWin-Winの関係がここにはある。

なぜ農業だけは守られているのか?そう考えるとこともしばしばあったが、今になって思えば、守られているわけではない気がする。むしろ出る杭が出ないように、押さえつけられていたのだと思う。食糧の調整はもう昔のことで、いまはより美味しいものを、より安く供給できるのだ。

既存の枠組みを打破できるもの、枠組みを作れるものが、過去の慣習によって成長を阻害されていた領域を変え、新しいビジネスモデルを構築できるはずだ。これは農業だけに限らず、なかなか気づかない僕たちのまわりにも、きっとたくさんあふれている構図なのだろう。